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天皇家・朝廷と信長の関係
まずは、織田信長と天皇家&朝廷との関係をさかのぼってみます。1568年、信長は足利義昭を奉じて念願の上洛を果たしました。このとき信長は多額の金銀を朝廷に献上しています。当時の朝廷は戦乱による窮乏の極みで、さまざまな儀式が資金不足で延期になったり、建物が朽ち果てていても修理するお金すらない状態でした。なので信長の献金は朝廷にとって願ってもないことでした。また、信長の施策で治安がよくなり経済も発展し、京の町が活気づきます。
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ここまでの朝廷と信長の関係は円満なものでした。しかし、信長の天下統一が進むにつれて、朝廷は徐々に信長への警戒心を強めるようになります。特に将軍・足利義昭を追放した事件は、信長が将軍という権威を利用するだけ利用してポイ捨てしたように見えたはずであり、それはそのまま朝廷にとっての「明日は我が身」と考える者がいたことでしょう。実際、信長はイロイロと朝廷に圧力をかけるようになります。たとえば自分の息のかかった誠仁親王を天皇にするために、正親町天皇に退位を迫ったことが挙げられます。天皇や朝廷にとっては「たかが武士、しかも田舎大名の信長ごとき」に天皇の即位に口出しされることは、あってはならないことです。したがってここは意地でも天皇の座を譲るわけにはいきません。信長の申し出をシカトします。すると信長は京都の町で「馬揃え」という軍事パレードを行います。馬揃えとは、カンタンにいえば「騎馬隊による行進」のようなものです。明智光秀や柴田勝家など錚々たる家臣たちが行進に連なりました。
これは一見すると、きらびやかな軍装をまとった織田軍団のファッションショーであり、招待された正親町天皇や公家衆も大いに歓声をあげたそうです。しかし、その華やかさとはウラハラに、もう一つの側面として威嚇のパレードでもありました。つまり「これだけの軍隊を持つ俺様(信長)に逆らうならば、天皇家なんてイチコロよ」っていうメッセージです。しかも会場が天皇の住まいである内裏のすぐ側だったので、その効果は満点だったと思います。
天皇と関係なく権力を握ったレアな政権
さらに朝廷にとって不気味だったのは、信長が公的な肩書を持たなかったことです。豊臣秀吉は関白、徳川家康は征夷大将軍として天下を治めました。これらの肩書は朝廷の枠内のもの、つまり形式上とはいえ天皇の部下になることを意味します。だから朝廷側としては彼らに肩書を与えるのは不本意ながらも、それにより自身の安全を確保することができました。ところが信長はこれらの地位を固辞するのです。(厳密には「先延ばしにした」ですが、そこはスルーしてください)
これを現代の会社にたとえると、こんな感じになります。社外コンサルタントが経営に口を出し、それがどんどんエスカレートし、いつの間にか社員に命令するようになっていた。しかし、彼は会社内での役職は持たず、それどころか社員でもない状態…。あなたが社員の立場だったらどう思うでしょうか?「おいおい、社長はコンサルの言いなりかよ。放っといたら会社が乗っとられるのとちがうか?そうなったら俺らはリストラ?」てな危惧を抱くのではないでしょうか。それくらい肩書がない人が実権を握るということは怖いことなのです。
ここで、あらためて日本の歴史をたどると、天皇の権威と関係のない政権というのはほとんど例がないことに気づかされます。藤原氏だって平氏だって源氏だって足利家も豊臣家も徳川家も、み~んな天皇の権威をバックに権力を握ったのです。軍部の独走で始まったとされる太平洋戦争も形のうえでは天皇の名のもとに繰り広げられました。「天皇は象徴」と憲法に掲げられている現代であっても、総理大臣を「任命」するのは天皇です。そう考えると信長がいかに異端の存在だったか、また朝廷が信長を恐れたかがお分かりいただけるのではないでしょうか。さらに決定的だったのが次の問題です。
自らを神と称した織田信長
学校の歴史では織田信長・豊臣秀吉の時代を「安土桃山時代」と習いましたよね。それぞれが政権を敷いた地名から名づけられました。もちろん安土が信長の時代です。信長はこの安土の地に荘厳な城を築きました。不幸にして本能寺の変の直後に焼失しましたが、安土城は幻の名城として語り継がれています。ここで特筆すべきことは、城内に神殿を設けたことです。つまり、信長は自ら神として君臨しようとしていた可能性があるということです。宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』によると「(信長は)自らに優る造物主は存在しないと述べ、信長自身が地上で礼拝されることを望み、自分以外に礼拝に価する者は誰もいない」と書かれています。
これが何を意味するか。信長は天皇を超える存在になろうとした、ということです。これで信長が朝廷の役職を固辞した理由が見えてきましたね。天皇はあくまで神である天照大神の“子孫”です。いっぽう信長は生きながら神そのものになろうとしたわけです。「自分の方が天皇より上だ」とアピールしたとも考えられます。なにより、天皇より上の存在が天皇の部下なんて、ややこし過ぎですからね。
以上、見てきましたように、信長は天皇と朝廷を追いつめ、実質的に天皇を消滅させようとした疑いがあります。自分たちの存在が脅かされ、身の危険すら感じるのであれば、天皇&朝廷にとって、本能寺の変の黒幕となる動機に十分なり得ますよね。
朝廷はどのように関与したのか?
では、朝廷はどのようにして光秀を謀反に走らせたのでしょうか?いや、彼らの目線にたつと、謀反ではなく天皇・朝廷に背いた悪人を「征伐」させたのか?ということになります。信長を襲撃するには、堅牢な安土城から攻めやすい場所へ移動させること。その際、警護の人数は少ないほど良い。ということになります。そこで選ばれた地が本能寺であり、本能寺に信長をおびき寄せたのが朝廷ではないかという説です。
ところで、このとき信長は1年以上もの間、京都に入っていませんでした。その信長を京に呼び寄せるには、それなりの理由が必要になります。それが「三職推任」あるいは「正親町天皇の譲位」のどちらかではないかとされています。三職推任とは「関白、太政大臣、征夷大将軍」のどれかの地位に就いてほしいというもの。会社でいえば、社長代理、副社長、筆頭専務といったところで「好きな役職をあげるから入社してよ」という最大限の譲歩でしょう。とはいえ、これらの役職につくことは、朝廷の枠内に入ることを意味しますから、私は後者の天皇の譲位説を支持します。いずれにしても、これらの用件であれば、さすがの信長も重い腰をあげざるを得ず、京都に向かうことになります。しかも用向きが公家衆との面談ですから、大勢の兵士は不要です。光秀が攻め込むには絶好のチャンスを作りあげたというわけです。そして、これらの謀略を光秀に伝える連絡係となったのが、公家であると同時に吉田神社の神主でもある吉田兼見といわれています。吉田兼見と光秀はお互い教養人同士として仲がよく、本能寺の謀議を伝える役としてはうってつけの人物でした。
光秀の心の内
ここで実行犯である光秀サイドの視点に立ってみましょう。もともと光秀は伝統的な権威である天皇や朝廷を尊重するスタンスでした。したがって天皇および朝廷をないがしろにする信長にギモンを抱きはじめたと考えられます。そもそも光秀が信長の配下となったのは、信長なら天下統一を果たし戦国乱世から泰平の世に導いてくれると信じていたからです。ですから光秀も粉骨砕身、信長の覇道につき従い尽力したわけです。ところが信長の朝廷への態度を見るにつけ、「あれ?この人は俺が考えていたこととは違う方向に進んでいるぞ」となり、信長への不信が強まるようになりました。加えて信長の徹底した成果主義に加速がかかると、家臣の誰もが自分の将来に不安を抱くようになります。特に老齢の光秀は過敏になっていたでしょう。となると「このまま信長を突っ走らせてよいのか?」という疑念がどんどん膨らみます。このとき光秀と朝廷の利害が一致し、本能寺へと走らせた…。という推論は十分にアリだと思います。
また、朝廷が直接には関与していなかったにしても、間接的に光秀を本能寺へ導いたという見方もできます。もう一度、光秀の立場で考えてみましょう。信長ほどの男に逆らうのは相当な覚悟が必要です。失敗したらおそらく一族皆殺しでしょう。神経質な光秀のことですから悩みに悩みぬいたと思います。もしかしたら、明智家の家紋である桔梗の花びらを1枚ずつちぎりながら「殺る、殺らない、殺る、殺らない、殺る、殺らない…」と堂々巡りをしていたのかもしれません。
そんなとき、彼の耳にもう一人の光秀の声がささやきます。「おい、自分。何をためらっているんだ。天皇を貶めようとする信長を成敗するのに遠慮はいらん。正義は我にあり!」とこのように自分で自分を説得し、天皇の名のもとに大義名分を作り自分の背中を押したであろうことは想像に難くありません。
天皇家の野望?
このように天皇、そして朝廷は有形無形のチカラで光秀に働きかけ、信長襲撃をアシストしたのではないでしょうか。そして、この有形無形のチカラこそが万世一系の天皇家を支えてきたものだと私は考えます。歴史上、天皇家を脅かした者は、非業の最期を遂げています。古代、聖徳太子の息子を殺害するなど天皇家を意のままに操ろうと蘇我氏は、宮中で斬殺されました。これが大化の改新につながる「乙巳の変」です。また圧倒的な権力で天皇家を乗っとろうとした疑いのある室町幕府第三代将軍・足利義満は毒殺されたとの説があります。そして信長しかり…。天皇家に背いた者には何らかの作用が働き、俗な言葉でいえば「天罰」が降ると思われていたのかもしれません。天皇家の血脈が2000年以上も続いた理由のひとつは、ここにあると思います。そして平安時代以降、すなわち「天皇=京都」の時代が、この時点ですでに約800年も続いていました。この連綿たる歴史の積み重ねによって京都そのものがパワースポットとなり、天皇を守ろうとする不思議な力が宿っていたのかもしれません。だから仮に光秀が謀反に及ばなくても、誰かが本能寺の変を起こしたのではないでしょうか。それが歴史の流れだと思います。
ところで本能寺の変後、朝廷は光秀に対し「明智光秀を政権担当者として認める」旨を伝える使者を送りました。しかし、光秀が秀吉に山崎の戦いで敗れると、一転して秀吉に祝いの使者を向けます。同時に証拠隠滅のために様々な書状が焼かれたといわれます。もしかしたら、その中に朝廷が本能寺の変に絡んでいた証拠があったのかもしれません。いずれにしても光秀vs秀吉の戦いに際し、朝廷は二股をかけていた可能性があり、勝者になびくことでその命脈を保ちました。これを「ズルい」とみるか、「したたか」とみるか。当時の天皇や公家はイコール京都人です。私はこのズルさも含めたしたたかさに今日の京都人の原型を見るように思えます。
本能寺の変。それは天皇家が天皇家であるために、有形無形の力学によって引き起こされた事件ではないかと思います。天皇家の最大のミッションは「存続」すること。さらにいえば、永続することが天皇家の野望だともいえます。とすると、信長の野望を食い止めたもの、それは天皇家の野望だったのかもしれません。
(編集部/吉川哲史)
参考文献「安土城の空間特性」/大沼芳幸 ※公益財団法人滋賀県文化財保護協会『紀要』より抜粋
戦国エンターテイメントマガジン歴史人「信長と光秀 本能寺の変の謎」
歴史マガジン文庫「信長死す」/小和田哲男・井沢元彦他
歴史の使い方/堺屋太一
逆説の日本史10/井沢元彦
明智光秀と本能寺の変/小和田哲男
戦国武将の政治力/瀧澤中