赤松小三郎遭難之碑

赤松小三郎遭難之碑

東洞院魚棚下ル

8.横井小楠

横井小楠は、熊本藩の儒学者であったが、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、藩政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕する。
1869年(明治2年)1月5日午後、参内の帰途、寺町丸太町下ル東側(下御霊神社前)で十津川郷士ら6人組の襲撃を受け、小楠の乗った駕籠に向け発砲され暗殺される。
殺害の理由は「横井が開国を勧めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根のものであった。享年61歳。

横井小楠受難の地

横井小楠受難の地

下御霊神社 神社前で殺害される

下御霊神社 神社前で殺害される

寺町丸太町付近

あとがき

1862年(文久2年)~1869年(明治2年)の7年間を取り上げたが、その間、数え切れない程の事件があった。ほんの160年前の出来事であるが、幕末の京は、日本史にとって極めて重要な場所だったのである。

京以外に目を向けると、幕末の大老「井伊直弼」が行った1858年(安政5年)~1859年(安政6年)の大弾圧「安政の大獄」である。
※梅田雲浜、橋本佐内、吉田松陰など武士たち8名がとらえられ、処刑された。死罪となったのは100名以上と言われている。京でも激震が走り、血なまぐさい事件勃発の引き金となった。

1860年(万延元年)3月3日午前9時頃、江戸城桜田門外で水戸藩士17名薩摩藩士1名による彦根藩行列襲撃事件が起こった。いわゆる「桜田門外の変」である。井伊直弼は討取られ首をはねられ、その間わずか十数分だったと言われている。幕府の弱体化が更に進み始めた。

1864年(元治元年)筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)によって起こった一連の争乱が天狗党の乱である。一橋慶喜を通じて朝廷に志を伝えるため、京都を目指すが、福井県敦賀で悲惨な最期を遂げた。353名が斬首処刑された。その後、徳川家15代将軍徳川慶喜の誕生である。最後の将軍は、二条城で大政奉還をし、新しい国づくりを目指そうとした。

そして、朝廷は王政復古の大号令を全国に発し、江戸城は無血開城され、新しい明治の夜明けが始まったのである。

京の都は、1200年を経過する中で、様々な政治、経済、文化が混ざり合って進化浸透し発展してきたのである。素晴らしい良い事も沢山あったが、今回は、悲惨な事件現場に焦点を合わせた。先人たちの生きてきた息吹を感じて、前を向いて生活していきたい。

※梅田雲浜(ウンピン)は、小浜藩出身の熱心な尊皇攘夷論者である。京都望南塾で幕府を批判するなど、過激な言動が多く、捕縛され獄中死した。烏丸御池上る東側に邸宅跡には、石碑がポツンと立っている。

梅田雲浜邸跡

梅田雲浜邸跡

烏丸御池上る東

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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