明智光秀が築いた城 -周山城を中心に-

明智光秀を主人公とした大河ドラマ「麒麟がくる」の時代考証を担当した小和田哲男静岡大学名誉教授を招いての講演が、京都市右京区京北下中町の「あうる京北(府立ゼミナールハウス)」で開かれた。
周山城の保全に取り組む「周山城址を守る会」などが主催。
ドラマ放映終了に併せて、周山城の歴史的価値を周知する活動の一環として2021年(令和3年)3月7日(日)に開催された。光秀と地元の周山城の関りについて、参加者たちは真剣に耳を傾けた。
その様子を小和田氏の了解の下、紹介する。

 

【小和田哲男さんの講演】要約

はじめに

大河ドラマ「麒麟がくる」のスタートが出遅れ、また途中コロナ禍の中、中断を余儀なくされた。今まで7回大河ドラマ時代考証を務めたが、今回ほどヒヤヒヤドキドキした事はなかった。大河ドラマの主人公は、信長、秀吉、家康と勝ち組だけではなく、明智光秀、石田三成など負け組にも光を当てたドラマを作成して欲しいと前々からNHKに言ってきた。今回明智光秀が主人公の大河ドラマ「麒麟がくる」の時代考証を担当し、大変嬉しく思っている。

光秀が築いた城跡は多く訪れたが、周山城址は未だ訪れていなかった。学生時代からの山城登りの友人の案内で2019年5月24日に地元の「周山城跡を守る会」の方々と登城できた。山の森の中に残るすごい山城であるので多くの人に知ってもらうため、歴史雑誌やNHK大河ドラマのガイドブックに光秀が築いた城「周山城」を紹介してきた。

小和田哲男静岡大学名誉教授

今回、地元の「周山城跡を守る会」の方々の熱意により開催できたことは誠に喜ばしかった。今日お集まりの6割が地元の方々であり、周山城跡を守ってくれるのは地元であり、今日は良い機会を与えて下さった。

ドラマの最後のシーンを脚本家の池端俊策氏と打合せをし、1年間ドラマの主人公であった光秀が殺されるシーンは出さなかった。しかして光秀は生き延び、徳川家康のブレーンである天海として活躍したと思われがちであり、心配であった。
本日は、光秀と周山城との関りを中心に光秀がつくった代表的な周山城の凄さを語っていきたいと思っている。


1.明智光秀の丹波侵攻

美濃の出身であった光秀は、最初は朝倉義景のもとに転がり込んできた足利義昭と信長との両属する形で段々と出世をしてきた。信長は能力主義であり、光秀は重要な役職に抜擢されてきた。一国一城の主の第一号は光秀であり、第二号は秀吉だった。近江の滋賀郡の坂本の城の周りの土地まで与えられたのである。

天正3年(1576)6月に光秀に出陣命令が下され、丹波平定に出てくることになった。丹波が手つかずだったのは、天正元年(1573)信長が足利義昭を京都から追放したので、丹波の政治状況はがらっと変わった。丹波の国衆たちは将軍がいる間は従っていたが、信長には従わないようになってきた。そして光秀に丹波平定の総大将として、出陣命令が下されたのである。

その様子は、『川勝継氏宛信長の朱印状』によって、川勝継氏は丹波国桑田郡在住の武将で、丹波攻めで光秀を遣わすのでそれに協力するよう命じたものであった。

『信長公記』巻八によると、信長は丹波平定を命じながら越前一向一揆を優先し、光秀も動員されている。光秀は加賀の代官にも命じられていて、信長は人使いは荒かった。その後、丹後・丹波侵攻が本格化していく。光秀が越前一向一揆平定のため越前に行っているとき、丹波の小畠左馬進永明に宛てた『明智光秀書状』によると、小畠永明に出陣要請した光秀が、永明に鋤・鍬その他普請道具を用意して出陣するよう指令している。丹波攻めの地ならしをしている。

第一次黒井城の戦いでは八上城の波多野秀治も光秀軍に加わっていたが、突然波多野氏が裏切り、天正4年(1576)1月15日第一次黒井城攻めは失敗に終わり、光秀は坂本城に逃げもどった。信長は黒井城の荻野直正(赤井悪右衛門)と講和した。直正からの詫言を信長が受け入れたという。他の武将でも丹波攻めは難しいのである。光秀は解任されず、大目にみられたのではないか。

その後、光秀は丹波守護代内藤氏との戦いで勝利し、天正5年(1577)拠点としての亀山城を築城した。第二次黒井城の戦いを始め、天正7年(1579)5月5日、氷上山城を落とし、6月2日、八上城の波多野秀治を降伏させ、7月19日、宇津城を落とした。最後には8月9日、黒井城を落とした。月に一つ落城させたのであった。

天正3年9月にはじまった光秀による丹波経略は足掛け2年かかり、幕が引かれたのである。

2.丹波を与えられる光秀

近江の5万石とあわせて34万石を所領として与えられ近江の坂本城と丹波の亀山城の二つの城主となっている。織田家臣団ではトップクラスにとなり、信長から激賞された。

『信長公記』巻十三 天正8年(1582)8月、佐久間信盛父子宛折檻上状によると、大坂本願寺攻めで佐久間信盛父子が大将を命ぜられながら、これといった成果が得られなかったので高野山に追放された。それにひきかえ光秀の働きは天下の面目をほどこし、信長は、光秀の功績を資料に残してくれたのである。信長の光秀への覚えは、羽柴や池田・柴田より上であった。

天正7年8月24日、光秀は百姓還住策(げんじゅうさく)の一つとして氷上郡の村に出した領内統治を出した。『明智光秀判物』によると、村人たちは戦乱を避け、村を離れて避難していたが、そのままでは田畠が荒廃し、村が成り立たなくなり、村人たちは村に戻り、従前通り、農業経営に携わるよう呼び掛けている。これは光秀の戦後復興策の一つである。

 

3.光秀の周山城築城

光秀は築城名人・縄張名人として、信長より早く坂本城天主を築いている。ルイス・フロイス『日本史』によると光秀を「築城について造詣がふかく、すぐれた築城手腕の持ち主」と称している。また、吉田神社の神官で公家でもあった吉田兼見の日記には、坂本城の様子が克明に書かれている。越前にいた時に築城技術を学んだとも考えられる。もしかして、坂本築城は安土城の試作品だったかも知れない。

周山城築城のねらいは、周山城の地政学的位置が関係している。周山城がある北桑田は京都と若狭とのルートの途中であり、物資や材木など運搬の中継地として良い場所であった。北陸遠征と山陰地方の毛利への備えとして、丹波・丹後への前線基地として重要視され周山城が築城されたのである。

築城開始は、江戸時代に書かれた『北桑田郡誌』では天正7年(1579)の宇津城攻め後、『丹波誌』では天正8年(1580)と考えられている。光秀の丹波平定後に宇津城の北側に周山城が築かれたと思われる。

今日、この会場である「あうる京北」に来る途中、周山城の全景を北側から見る機会があった。このすごい山城は攻めづらい立地に築かれたと感じた。

 

4.織豊系城郭の極致 周山城の縄張り

昔から山城の研究者は、城跡に調査に入り、縄張図を作成してきた。城跡のどこに曲輪(郭)や土塁、空堀などがあるのか図面に描いてきた。

近年、赤色立体図で40を超す曲輪が確認され、縄張がより明らかになった。京都市文化財保護課が平成29年3月、「航空レーザー測量」と目視調査で詳細な城跡の配置図(縄張図)を作成し発表した。城跡が樹木に覆われていても地表の高低差を飛行機からレーザーで確認できるようになっており、登城ルートも何本かが確認された。このような新しい研究方法が導入され、城跡の全山尾根上に新らしく遺構が確認されてきた。

短期間にしては40を超す曲輪が築かれた。曲輪には兵が駐屯したと考えられるので、発掘すると建物の掘立柱跡が出てくるかも知れない。ひょっとして礎石も見つかるかもしれない。

城跡は、全山総石垣に近いが、西の尾根に「土の城」がある。西からの攻撃の備えの兵を駐屯さす空間と考えられる。
本丸を中心に見ると、曲輪は段々と配置され、その入り口にはみごとな桝形虎口が多数ある。石垣は自然石を使い、野づらに近い積み方である。馬の背状の地形を利用し、竪石垣も見られ、石垣を上手く築いている。切岸や空堀・土塁などが現存し、戦国期中世城郭の見どころが満載の山城である。

天主はあったのか? 一般的に当時の資料には天主閣という名称は出てこなく、天主とだけ出てくる。周山城本丸の中央に小高い土盛が見られ、何らかの建物が見られたようだ。穴倉形式になっていて安土城とそっくりであり、現存する遺構から天主があってもおかしくない。

今日、会場の受付近くに、周山城関係の資料が展示されており、NHKが作成した周山城のCG復元図がビデオ放映されていた。天守閣が映し出されていたが、その様な天主閣があったかも知れない。

光秀が築いた城を振りかえって見ると・・・
坂本城跡は、琵琶湖に没していて、灌水時に石垣が一部見られる。城門が移築されている。
亀山城跡は、近世でつくり直され、今では大本教本部に買収されている。明治になり石垣を積み直している。
福知山城跡は、城下町づくりの一環として、洪水を防ぐための堤防が築かれた。現在では明智藪とよばれている。光秀が丹波で善政を布いたことは地子銭の免除により知られている。石垣に石仏など転用している。

1つは水没し、2つの城は、江戸時代につくり変えたりされ、光秀時代の城として現存していない。しかし、周山城は、400年たってもほぼ昔のまま残っており、森に残る山城で「古城」「荒城」の雰囲気をかもし出している。光秀が築いた唯一の城と実感でき、光秀築城の真髄が現在でも、見られるのが周山城である。

最後に周山城の記述が出てくる資料を紹介しておく。
 『宗及他会記』によると、天正9年(1581)9月15日、光秀は周山の「彼山」において、堺の津田宗及を招き「十五夜之月見」を楽しんだ。「彼山」とは周山城のことと考えられる。おそらく周山城の天主で月見をしたと思われる。
 どのような天主があったかは、NHKが作成したビデオのような複数層の天主閣が、現存したかも知れない。
 周山城は光秀滅亡後も使用され、『兼見卿記』によると、天正12年(1584)2月4日、羽柴秀吉が「丹州シヲ山ノ城」に下向している。秀吉が登城している。
 天正12年当時、秀吉の家臣だった加藤光泰が城主に命じられたという記録もある(『寛政重修諸家譜』)。

 

おわりに

大河ドラマ「麒麟がくる」を通して、光秀のはたした役割を多くの方々に認識してもらえたと思われる。
天正元年、越前朝倉攻めの際、「金ヶ崎退き口」において従来、「藤吉郎の退き口」といわれ、藤吉郎一人が殿を努めたように描かれてきた。しかし、藤吉郎一人ではなく、光秀と池田勝政と三人で殿を努めた文書が若狭で出てきたので、脚本家と相談し、その様に描いてもらった。歴史家の勤めでもある。

光秀は秀吉に山崎の合戦で敗れ、非業の死を遂げ、池田勝正は鳴かず飛ばずで消え、一人勝ち残った秀吉が「金ヶ崎退き口」の手柄をひとり占めし書き残されるのである。勝者だけの歴史では本当の歴史は紡げない、敗者の歴史も掘り出していかなければと思っている。
今までは、光秀は謀反人・人殺しの悪人と思われてきたが、江戸時代は下剋上は否定されるので謀反人と思われても、戦国時代は下剋上なのである。
光秀の謀反の真相は?朝廷に対する信長の仕打ちを光秀が我慢できなかったのではないか? 私は、信長非道阻止説を唱えている。ドラマでもそれに近い形で描いてもらった。歴史は負けた側が悪く陥れられるが、光秀の復権に少しでも風穴を開けられたと思っている。

感想や質問事項

※ 光秀は本能寺の変を起こした後、国つくりのビジョンがあったのであろうか?
※ ドラマで描かれていたように、光秀が生き延びてて欲しいと今でも思っている。
※ 日本100名城続編が出版されたが、更に続編には周山城を記載して欲しい。
※ 日本史は人物の善悪で教えられてきた。光秀を大河ドラマを通して勉強ができ、イメージが段々と変わって来た。
※ 亀山城の印象をお聞きしたい。
※ 山城の石垣はどこで採集してきたのか?
※ 光秀と津田宗及との月見をした資料の出展は?

小和田哲男氏と参加者との質疑応答は、和気藹々の雰囲気で遣り取りが行われた。

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この記事を書いたライター

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

|自称まちの歴史愛好家|北野天満宮/今宮神社/千本通/明智光秀/怖い話