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「ほとんど全ての者から快く思われていなかった」「その狡猾さにより信長の寵愛を受け」「裏切りや密会を好み、残酷で独裁的」「悪魔とその偶像の大いなる友であり」
これは戦国時代に日本に滞在したポルトガルの宣教師・ルイスフロイスによる光秀評です。要約すると「ズル賢く上司に取りいるみんなの嫌われ者。残酷な裏切者。悪魔とオトモダチ」ボロカスですね。特に最後の「悪魔と…」には悪意を感じます。これは光秀がキリスト教に対し否定的なスタンスであったため、宣教師であるフロイスには悪者に見えたのだと思います。
これは極端な例にしても、一般的な光秀のイメージといえば「有能ではあるものの、どこかひ弱で神経質な裏切り者」といったところでしょうか。なんとなくネガティブな空気を漂わせていますよね。でも本当にそんな辛気くさいキャラであったら、大河ドラマの主人公に選ばれるはずがありません。そこで今週のテーマはコレ、「光秀の実像はどこにあったのか」です。
バツグンの信用
光秀は織田家の出世頭で、家臣のなかで最初に城を与えられました。
その城の名は坂本城といい、比叡山の麓つまり大津にありました。その後、さらに丹波の福知山と亀山(現在の亀岡)にも城を築きます。
私はこの位置関係に信長の光秀に対する絶大な信用を感じます。大津と亀岡の間にあるもの、それが京の都です。すなわち京都を挟むかっこうで光秀に領地を与えたのです。これは「京都で何かあれば、すぐに光秀が駆けつけてくれる」という期待の表われです。
そして何よりも「光秀が裏切って京都=信長を攻めることは絶対にない」という大いなる信用を意味しています。人間、やっぱり信用が一番です。
まあ、その期待がものの見事に破られた結果が本能寺の変なのですが…。でもだからこそ、400年たった今もナゾの事件とされているわけです。
明智社長の社訓
光秀は信長の部下でありながら、他国の大大名にも劣らない広大な領地を与えられていました。いわば織田カンパニーの明智支社長のようなものです。その明智支社には現代でいうところの就業規則にあたる「家中法度」というものがありました。規則というよりは社訓、社員心得のようなものともいえます。ここには家臣の京都での行動規範がこと細かく書かれています。主だったものを挙げてみますね。
①洛中で馬に乗ることを禁止する
②洛中洛外では酒色にふけった遊興を禁止する
③京都に入る必要がある場合は、その事情を説明すること
④坂本と丹波を往復する場合は紫野から白河を通り、汁谷大津越えで下るように
※汁谷はおそらく現在の渋谷街道かと思われます
いかがでしょう。④の往復コースは、地元の方ならお分かりかと思いますが、ものすごい迂回になります。そして①と②はともかく、③④はそもそも「京都に入るな」と言っているようなものです。これらについては、京都で無用な騒動を起こし信長の心証を悪くしないためだという説もあります。しかし、私はここに光秀の京都へのリスペクトを感じます。光秀にとって京都は天皇が住まわれる神聖な地。その聖なる地に軽々しく足を踏み入れるべきではない。くわえて洛中の人々に迷惑をかけてはいけない、という市民への思いやりをくみ取ることができると思います。そういった想い、価値観がこの家中法度に表われているのです。そこには光秀の京都への崇拝と細やかな気遣い、そしてそれを部下に徹底させることができた統率力、そういったものがあぶり出されてきます。統率力という意味では、本能寺の変という大それたクーデーターに際し、光秀の部下の誰一人として密告者が出ずミッションコンプリートできたのも、それだけ上司としての光秀に心酔していたからだという見方もできますよね。
戦国ベストカップル・光秀夫婦
さて、ここまでは武将としての「職業人・光秀」の人となりについてお話しましたが、ここからは「家庭人・光秀」にスポットを当ててみたいと思います。光秀の奥さんは煕子(ひろこ)といいました。この夫婦は戦国ベストカップル総選挙があれば、まちがいなく上位にランキングされるであろう仲の良い夫婦でした。そんな2人のラブラブエピソードをご紹介しましょう。
信長と出会うまでの光秀は流浪の生活を送っていましたが、あるときチャンスが訪れます。高い教養をそなえていた光秀に「連歌会を開催しないかい?」という声がかかるのです。
ここでちょっと教養タイム。そもそも連歌とは何か、ご存知でしょうか。連歌とは五七五七七のリズムで詠む短歌を、複数の人でつなげていくスタイルをいいます。まだようわからんですよね?みなさん「マジカルバナナ」って覚えておられます?20年以上前に板東英二が司会していた番組での連想ゲームです。「♪バナナといったら滑る」「♪滑るといったらスキー」「♪スキーといったら…」こんな感じで前の人が詠んだ歌に続いて自分の歌をつなげていくのが連歌です。
この連歌会は現代でいうところのゴルフ外交のような趣きがあり、表向きは娯楽ですが内々では仕事の話を進めていたようです。そしてこの連歌会を主催するということは出世への大きなチャンスでもあったのです。しかし、連歌会を主催するには、けっこうな大金がいりました。貧しい明智家にはそんなお金がありません。泣く泣く断ろうとする光秀を前に「私がなんとかします!」と言いきって引き受けさせたのが、光秀の妻・煕子でした。彼女はどこからか工面したお金でご馳走とお酒を用意し参加者たちをもてなします。おかげで連歌会は立派に行われ、光秀は大いに面目をほどこし、出世の足がかりとすることができました。
それしても不思議なのは煕子はいったいどうやってお金を用意したのか?です。「ヘソクリでも隠しもっとったんかな?」とノンキに考えていた光秀でしたが、目の前に現れた煕子の姿を見て光秀は絶句しました。彼女が自慢にしていた長い黒髪がバッサリと切られていたのです。
愛する夫のためならと、煕子は髪を売ったお金で連歌会のもろもろを用立てたのです。「髪は女の命」といわれますが、この時代の貴族や武士階級の女性にとっての髪はそれ以上のものとされていました。その髪を売ってまで夫に尽くした煕子の愛。
ちなみにこの話にいたく感動したのが、かの有名な俳人・松尾芭蕉でした。彼は近江の西教寺にある煕子の墓を訪れ「月さびよ 明智が妻の 話せむ」という句を詠んで、煕子を讃えたそうです。
オットコマエ光秀!
この煕子の献身的な内助の功はどこから来たのか。話は2人の婚約時代にさかのぼります。縁談が進み嫁入り間近となったその時、悲劇が訪れます。煕子は疱瘡という難病にかかってしまうのです。独眼竜で有名な伊達政宗も幼少期にこの病で片目を失明したという恐ろしい病気でした。幸い一命はとりとめたものの、美貌で有名だった煕子の顔には大きな痕が残ってしまったのです。困った煕子の両親は煕子の妹を替わりに嫁がせようとします。
しかし、光秀はこう言います。「容姿は年月や病気によって変わってしまうもの。しかし、心は変わることがない。自分は煕子の心の美しさを見初めたのだ」と。ドラマであれば、藤井フミヤさん作「TRUE LOVE」のイントロが流れそうなシーンですな。 こんなん言われたら女子的にはたまりませんよね。きっと煕子は「この人と一生添い遂げよう」と固く心に誓ったはずです。思わず「ヒューヒュー」としてしまいそうなエエ話ですねー。「人は見た目が9割」な~んて言う人もいますが、人間やっぱり真心ですね。
こうして2人の絆は揺らぐことなく光秀は終生、側室を持たずに煕子LOVEを貫いたといわれています。お家存続のためには1人でも多くの子供を作ることが大事とされたこの時代、まして大大名並みの財と権力を手にした光秀ならば、側室を持って当然、むしろ持たなければならないとされた風潮がありました。それでも煕子ひと筋の光秀。このあたり、成りあがり根性丸出しで側室をとっかえひっかえした秀吉とは対照的です。
光秀が教えてくれたこと
戦国一のおしどり夫婦ともいわれた光秀と煕子。本当はこの2人をメインテーマにした記事を書きたかったのですが、残念ながら煕子と京都の接点がどうにも見つかりませんでした。それじゃ本サイトの趣旨「Kyoto Love.Kyoto」にならないってんで、少しテーマの幅を広げたのが今回のタイトルなのでした。
さて、ここまで光秀のプライベートな側面からその素顔に迫ってみました。これらのエピソードについては諸説あるようでホントのことなのか、実際のところはわかりません。冒頭のフロイスが書いたような一面もあったのかもしれせん。何より「天下の裏切り者」としてのレッテルを貼られているのは紛れもない事実です。でも人間誰だって良い面と悪い面があります。それが光秀の場合、あまりにも悪い面ばかりが誇張されてきました。私自身も正直、ごく最近まで光秀にいいイメージは持っていませんでした。でも今回ご紹介したお話をはじめ様々なエピソードを知り、光秀の素顔に触れることでずいぶんと印象が変わりました。
「歴史は勝者が作るもの」とよく言われます。それは単に歴史の見方だけではなく、何事も一面からだけでは真の姿を知ることはできないということを光秀の生き様が物語っています。
(編集部/吉川哲史)