京都ハレトケ学会『昭和の御大礼』

令和元年10月22日、天皇陛下の皇位継承を国内外に知らしめる即位礼正殿の儀が皇居・宮殿で行われた。当日の東京都内は朝から強い雨と風に見舞われていたが、儀式が始まる直前にやみ、晴れた空に虹がかかったことが話題となった。なお、11月14日~15日には皇居・東御苑において、大嘗祭が予定されている。
 

近代の御大礼

即位礼(御大典)と大嘗祭をはじめとする御代替わりの儀式を”御大礼”というが、東京で行われるようになったのは平成の時からである。明治時代は慶応4 年(1868)、京都御所で即位礼が執り行われた後に明治天皇が御東幸され、大嘗祭は明治4 年(1871)に皇居(現在の吹上御苑内)で行われている。

御東幸から8 年後の明治10 年(1877)と11 年(1878)の京都御行幸の際、明治天皇は京都御所とその周辺の”九門の内”(旧公家屋敷跡)の荒廃ぶりを痛惜されて、一帯を保存・整備する「大内(おおうち)保存」を京都府へ命じられるとともに、後の大礼は京都で行なうとする御意向をお示しになられた。これにより九門の内は京都御苑として整備され、旧皇室典範・第11 条「即位の礼及大嘗祭は、京都に於て之を行ふ」にしたがって大正天皇と昭和天皇の御大礼は京都御所で行われたのである。

御大礼の儀式には剣璽(宝剣と宝玉)と賢所(神鏡)が必要である。大正の御大礼では特別に設計された賢所乗御車が作られて、東京~京都駅間を天皇・皇后両陛下の御召列車とともに賢所が移御された。京都駅で賢所は御羽車に移し奉られて、八瀬童子によって奉舁されている。鹵簿(ろぼ、行幸の行列)の経路は、烏丸通を北進、丸太町通を東進、堺町御門より京都御苑内、建春門から御所へと入御されている。なお、京都駅は大正の御大礼に合わせて、ルネサンス風建築様式による総檜造の二代目駅舎に建て替えられている。

昭和3年の京都

昭和3年(1928)の京都は厳戒態勢であった。即位礼は11月10日、大嘗祭は11月14日~15日と定まり、天皇・皇后両陛下が11月6日に皇居を御発輦、名古屋離宮(現在の名古屋城)で一夜御駐輦され、京都駅に御着輦されるのが11月7日となっていた。この御行幸に合わせて11月26日の御還幸まで内閣総理大臣以下、各省の大臣も京都で執務を行なうことになり、京都府庁(現在の旧本館)をはじめとする市内の施設に各省の臨時出張所が設けられている。また期間中、即位礼に参列する26か国 の特派大使・使節が滞在することから、京都市内に6千名を越える警察官が動員されて警備にあたっていた。

鹵簿の経路は大正時代と同じであったが、それに先立って烏丸通の塩小路~丸太町間、丸太町通の烏丸~河原町間のアスファルト舗装と電燈設置が行われ、京都駅~京都御苑までの全ての経路(沿道の街路樹・電柱の根元を含む)が白砂を撒いて清められている。京都駅前広場および京都御苑内は招待者・関係者向けとして立ち入りが制限されており、烏丸通の道路東側に歩道から一間(約1.8メートル)、西側には三尺(約1メートル)の位置にロープが張られ、ここに筵(むしろ)が敷き詰められて一般向けの拝観場所”奉拝場”とされた。この時に使用された筵は38万6千枚ともいわれる。また床高3尺以下にかぎって桟敷形式の奉拝場設置が認められており、烏丸通沿いの住民から表戸を外した軒下や空地への仮設奉拝場設置の申請が相次いでいる(出来上がる前から予約済み、一間あたり50~100円で飛ぶように契約されたという)。

11月6日、午後8時頃から烏丸通沿いの奉拝場の場所取りがはじまっている。鹵簿の8時間前、11月7日の午前5時に奉拝場への入場が禁止されることもあり、午後11時頃には大混雑、奉拝者は弁当持参で布団・将棋などを持ち込んで長期戦の構えであった。しかしながら、夜半から小雨が降り出して人々は濡れ鼠となり、若い娘の一張羅は台無し。すかさず傘や油紙を売り歩く商人が現れるも取り合いとなって売り切れ、果てはぼろぼろの古番傘が高値で取引される始末だったが、中には外した雨戸を貸す親切な家もあったとされる。凍える夜を沿道で過ごした人々には、白砂の撒かれた道路が電燈によって光のトンネルのように明るかったことが印象的だったという。
 

御着輦から鹵簿

11月7日の正午頃に雨はやみ、晴れ間が広がって人々は歓喜した。午後2時、御召列車が京都駅へ御着輦された。九条・東山橋の鴨川右岸に野砲4門が据え付けられており、御召列車が東山トンネルを通過すると同時に第1発を発射、続いて100発の合計101発の皇礼砲が響き、軍楽隊による君が代が奉奏されている。

午後2時半頃、京都第16師団の各科兵・約5千名が整列する中、騎乗の警察官が先導し、京都駅烏丸通入口に設置された大奉迎門から京都御所への鹵簿がはじまった。賢所が移御された御羽車は八瀬童子16名が奉仕し、天皇陛下は6頭立て、皇后陛下は4頭立ての馬車に乗御されている。沿道で一夜を過ごした人々は皇礼砲の音を聞くとともに静まり返り、鹵簿を跪座(きざ、正座)・合掌して奉拝したという。なお、沿道に詰めかけた奉拝者はおよそ39万人、うち6~7割は女性であった(伊勢神宮および畝傍・泉山・桃山御稜への御親謁など、鹵簿は御還幸までに計7回行われた)。

同日夜から鴨川の各橋は電飾(イルミネーション)が点灯され、菊水楼(現在のレストラン菊水)・矢尾政(現在の東華菜館)に奉祝電燈が灯されるなど、設置申請された電飾は20万灯を越えている。また烏丸今出川~植物園、熊野神社~百萬遍、七条大宮~千本七条間には御大礼奉祝電車(花電車10台・屋台電車5台)が往復運転を行なっており、まさに京都市内は不夜城となっている。

即位礼当日

11月10日、即位礼の日。午前10時、御即位を皇祖神に奉告される賢所大前の儀が京都御所・春興殿で行われている。春興殿は、賢所が奉安されていた内侍所が御東幸に伴って皇居へ移築されたため、大正の御大礼に合わせて新たに建造されたものである。この儀式に陛下が召されるのは純白の帛御袍(きぬのごほう)であり、これは嵯峨天皇の詔があったことに起源し、古来より重要な神事にのみ御着用されるという。

午後からは紫宸殿の儀が行われた。紫宸殿・南庭には、東側・左近の桜の前から日像纛旛(にちぞうとうばん)、頭八咫烏大錦旛(とうやたがらすけいだいきんばん)、青・黄・赤・白・紫5色の菊花章中錦旛、同じく5色の菊花章小錦旛が立ち並び、西側・右近の橘の前には東に相対して月像纛旛(げつぞうとうばん)、霊鵄形(れいしけい)大錦旛、以下東側と同様に5色の菊花章中錦旛、菊花章小錦旛が並ぶ。さらに東西の大錦旛の前に赤地錦の上部に神武天皇の故事にちなむ魚と厳瓮(いつべ)、下部に金字で「萬歳(ばんざい)」と記された万歳旛、小錦旛の前には10本ずつの矛が立てられている。そして、箭(や)を負い弓を持った武官装束の威儀物棒侍者が東西2列、20人ずつ整列していた。

皇族や各国の大使・使節を含む2千人余りが参列する中、天皇陛下は桐竹に鳳凰・麒麟の御紋が入った黄櫨染(こうろぜん)の御袍を召されて出御され、高御座(たかみくら)へ昇御あって御倚子(ごいし)に着御あると、侍従によって案上に剣璽が奉安される。続いて皇后陛下が出御され、御帳台(みちょうだい)の御倚子に着御されると、侍従2人と女官2人がそれぞれ高御座・御帳台に昇り、御座の御帳を左右に搴(かか)げる。立御された両陛下の御姿を拝し、諸員が最敬礼する中、天皇陛下が勅語(おことば)を述べられる。南階の下に控えていた田中義一内閣総理大臣は寿詞(よごと)を奏し、参列した諸員とともに万歳三唱を行なった。

午後3時に出雲路橋付近の鴨川左岸より101発の皇礼砲がとどろくと、先立って慶讃法要を行っていた各寺院は一斉に梵鐘を鳴らし、京都市民は我先に街路に出て万歳を叫んだという。各工場の汽笛も鳴らされて市電は一斉に停止、自動車に乗っていた人も下車して万歳三唱し、祝意を表している。ちなみに御即位に際して80歳以上の高齢者8千人余りに木杯と酒肴料が下賜されており、この日、各学区の小学校で奉授式が行われている。

奉祝ムードが一気に高まり、午後6時から市民各団体による提灯行列がはじまっている。中等学校の全生徒7千5百人の動員をはじめ、その数は9団体3万人とされる。これらの集団は、二条城前に集合して丸太町通を西進、堺町御門から京都御苑に入り、建礼門前で万歳三唱、下立売御門から出て京都府庁前にいたって解散している。


御大礼が残したもの

最後に昭和の御大礼が残した主なものを挙げておく 。

鉄道

昭和2年(1927)12月に鞍馬電気鉄道(現在の叡山電鉄)が設立され、昭和3年12月1日に山端(現在の宝ヶ池)~市原間が開業している。御大礼に合わせて開業する予定であったが、工期の遅れがあったようである。

同じく御大礼に合わせて新京阪鉄道(現在の阪急電車・京都線)の天神橋(現在の天神橋筋六丁目)~西院間が開業しているが、詳しくは島本由紀氏の『関西初の地下鉄は京都から』を参照されたい。

宿泊業

まだ大きなホテルがなかった時代であり、外務省が手配して都ホテル(現在のウェスティン都ホテル京都)と京都ホテル(現在の京都ホテルオークラ)が外国大使・使節のために貸し切られた。京都ステーションホテル(現在の京都センチュリーホテル)は、昭和の御大礼に合わせて11 月に開業されたが、1 年足らずで5 階建てのホテルが竣工したことに当時の人々は驚いたという。

市内の旅館450軒の有名どころは関係者や参列者が予約済み、市内の寺院でも地方の檀信徒や団体を受け入れて満員という状況だった。こうした状況下では価格高騰や劣悪な接客が懸念されたが、京都府の指導と経営者・従業員向けの事前講習会もあって、価格が抑えられるとともに設備の改装修復・夜具の新調が行われるなど、むしろ御大礼前よりサービスの改善が見られたとされる。

なお、内閣総理大臣をはじめとする政府高官・軍の幹部など約2千7百人は、大多数が旅館でなく市内有力者の豪邸や別邸などに分れて滞在しており、宿不足の状況が伺える。

夜回り

京都府知事および大礼警備本部は公報や新聞紙面での呼びかけ、各戸への「大礼に関する心得」「鹵簿奉拝者心得」といったビラ配布により、市民への注意喚起をはかっている。特に火災の発生が最も警戒されており、焚火の禁止、こたつ・暖炉・火鉢等の火気注意と外出時の消火の徹底、かまど・風呂場・神棚や仏壇の燈明付近に燃えやすいものを置かないこと、子どもの火遊びに注意するなど、事細かに記されている。

11月3日~17日までは各戸から1人を出しての夜回りが義務付けられ、自身番(詰所)が各町1個、市内290か所余りに設置されたという。また御大礼期間中に火災が起こらぬよう、11月5日~10日までの5日間、愛宕神社で鎮火祭が行われている。


三船祭

御大礼記念として、車折神社の御神体を奉乗する御座船、龍頭で彩られた舞楽船、鷁首で彩られた管弦船などを大堰川に浮かべて誌歌を楽しんだという平安時代の御舟遊祭(現在の三船祭)が復興され、10月17日にはじめて催行されている。

をどり

御大礼奉祝記念として2 度目の都をどり『奉寿萬歳楽(ほうじゅまんざいらく)』が祇園甲部歌舞練場で 11 月 4 日~12 月 10 日まで開催されている。特に第 4 幕の「瑞穂の国振(くにぶり)」は悠紀・主基斎田の御田植を模した踊りとなっており、好評を博している(「瑞穂の国振」は令和元年10 月の温習会で「主基の御田植」として再演された)。

また鴨川をどり『代々のみやこ』は、先斗町歌舞練場で11月6日~12月6日まで開催されている。天武天皇が吉野宮で琴を奏して歌われたおり、雲中に天女が現れて舞い、五度袖をひるがえしたという”五節の舞”の起源に取材した「袖振山の天津乙女(あまつおとめ)」が話題を呼んでいる。

いずれも11月10~16日は即位礼と大嘗祭の歌舞音曲停止のため休演、または参列者接待のため一般観覧中止となっている。


高山彦九郎像

座して御所を遥拝する、江戸後期の勤王家・高山彦九郎の銅像が三条大橋の東詰に設置され、11月8日に除幕式が行われている。

平安神宮の大鳥居

本来10月22日催行の時代祭が日程変更され、奉祝行事として11月12日に行われている。「鳳輦・各列は市役所前に参集、寺町通を北へ、二条通を西へ、烏丸通を南へ、四条通を東へ、寺町通の南で休憩、四条通を東へ、大和大路を北へ、慶流橋を渡り、新造された大鳥居を初通過して平安神宮へ還幸する」とあり、あの大鳥居も御大礼に合わせて竣工されたことが分かる。

【参考文献】

京都日出新聞(1928年1月~12月)
大阪朝日新聞・京都附録(1928年10月~11月)
江馬務(1928)「東京御発輦より紫宸殿の儀まで」『風俗研究』第100号
関根正直(1928)『御即位大嘗祭 大禮要話 全』六合館
京都府(1929)『昭和大禮京都府記録』上・下巻
京都府警察部編(1929)『昭和大礼京都府警備記録』上巻・下巻
大礼記録編纂委員会編(1931)『昭和大礼要録』内閣印刷局
出雲路通次郎(1942)『大禮と朝儀』櫻橘書院
森忠文(1978)「明治初期における京都御苑の造成について」『造園雑誌』41巻3号
森忠文(1983)『明治期およびそれ以降における京都御苑の改良について』『造園雑誌』46巻5号
明治大正昭和新聞研究会(1989)『新聞集成 昭和編年史 三年』 第4巻 新聞資料出版
鎌田純一(2003) 『即位禮大嘗祭 平成大禮要話』 錦正社
高木博志(2006)『近代天皇制と京都』岩波書店
東條文規(2006)『図書館の政治学』青弓社
伊藤之雄(2010)『京都の近代と天皇 ―御所をめぐる伝統と革新の都市空間 1868~1952―』千倉書房
小林慧(2014)『京都市公同組合の成立と変遷 ―昭和の大礼への対応を中心に―』東京大学日本史学研究室紀要18
戸田文明(2016)『昭和大礼と京都府警備』四天王寺大学紀要 第61号
木村大輔(2017)『京都烏丸通沿道における街並の形成過程 ―大正~昭和初期を事例に―』佛教大学総合研究所共同研究成果報告論文集 第3号
所功(2018)『近代大礼関係の基本史料集成』国書刊行会
『京都の御大礼』展実行委員会編(2018) 『京都の御大礼 ―即位礼・大嘗祭と宮廷文化のみやび―』思文閣出版
島本由紀(2019)『関西初の地下鉄は京都から』伝えたい京都、知りたい京都。
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この記事を書いたライター

京都ハレトケ学会 主宰。
京都六斎念仏保存団体連合会・京都中堂寺六斎会 会長付/公式カメラマン。

2006年に滋賀から京都市へ移住したことをきっかけにまつりの撮影を始める。
会社勤めのかたわら、ライフワークとして郷土史家の事績をたどっている。

作品展示
2014年 『中堂寺六斎念仏』展 京都市伏見青少年活動センター
2015年 『都の六斎念仏』展 京都府庁旧本館
2016年 惟喬親王1120年御遠忌・協賛展示『親王伝』 京都大原学院
2017年 『京のまつり文化』展 綾小路ギャラリー武
2018年 『京のまつり文化』展 ごはん処矢尾定
2019年 『続・京のまつり文化』展 ごはん処矢尾定

|京都ハレトケ学会 主宰|宝船図/桜/桂離宮/祇園祭/御大礼