そういう縁もあったのでしょうか、丈山は、東本願寺に協力しました。
東本願寺は、新しい教団として成立したばかり。
当時の法主は、宣如といい、丈山からは約20歳下でした。
丈山と宣如は、直接連絡を交わしあい、かなり親密だったことが、残された文書から推定されます。

宣如は、三代将軍家光からまとまった土地を寄進され、それを自分の隠居所にするために、庭園を作ることを考えました。
そこで起用されたのが、石川丈山でした。
渉成園と名付けたのも丈山だと記録されています。

渉成園を作り始めた年と、詩仙堂(凹凸窠)が完成した年は、同じ1641年です。

渉成園は、石川丈山が、造園家として、人のために手腕をふるった、最大の例なのです。
ですから、渉成園には、中国風に名付けられた見所や、中国風の建物などが残されています。

この仕事は、無償ではなかったと思われます…もっとも、対価を得ることを、援助として分類するべきかは、迷うところです。先述の2)と3)の中間にあたるかも知れません。

話を、「丈山隠密説」に戻しますが、私は、石川丈山が幕府からの金銭的援助を受けるような経済状態にはなかったと考えます。弟子に恵まれ、知人に恵まれ、東本願寺などから引き合いのある、充実した生涯です。
付け加えるなら、文化人として名が売れ、時の上皇からもお誘いがかかるほどの有名人に、隠密をさせる必要があるでしょうか。江戸幕府は京都に代官(所司代)を設置しており、堂々と監視活動をできる立場にありました。

私は、丈山が担っていたのは、見張りや告げ口などといった低次元の役割ではなく、彼ならではの教養を生かしたものだったろうと思います。

丈山が生きていたのは、徳川幕府による新体制づくりの時代でした。戦国時代も桃山時代も終わり、島原の乱を最後に日本から内戦が無くなります。
ここからどうやって社会の安定を維持し続けるのか、それが当時の政治家らに求められる課題でした。

丈山の親戚、本多正信が、本願寺教団を2つに分け、一向宗蜂起の危険を低下させようとしたのも、その一環です。
しかし、東本願寺とその教団はまだ成立したばかり。
現代の我々は、のちに、大きな教団として発展したことを知っていますが、当時の人にすれば、「しっかり援助しなくては」「廃れさせてはいけない」という気持ちだったことでしょう。

丈山が、東本願寺法主のアドバイザーとして、彼が持つ学識を注ぎ、教団の文化的発揚を図るということは、徳川の文化・宗教政策を側面から援護することにもなりました。

丈山は、武士を引退しても、島原の乱に深い関心を寄せたり、手紙に「徳川への賊は西から現れると神君(家康)が言っていたが、明察だったな」と書いたりと、社会的政治的関心を失ったわけではなく、徳川への忠誠心さえ抱き続けていた人です。

「私は武士としては一国一城の主になれなかった。しかし文人としては名を残してみせる。そしてその影響力でもって世に貢献し、御家を輔けてみせるわい!」
くらいの気概と、心の『脂っけ』を持っていたのではないか…幾つかのエピソードを見ていて、私は感じます。

 

ちょっと飛躍的な想像も…

最後に、資料を踏み外して、飛躍的な想像をしてみます。

詩仙堂にある三十六詩仙図は、当時、和歌の名人だった木下長嘯子という人が、三十六歌仙の絵を書かせ、東山高台寺(秀吉の妻の住まい)の近くに置いたことを意識し、対応させて考案したというのが、一般的な見解です。
この、木下長嘯子(勝俊)は、秀吉の一門だった人です。

他にも、京都には、三十六歌仙にまつわるものがありました。
西本願寺に伝わる、最古の三十六人集(西本願寺本:国宝)と、飛雲閣に描かれた三十六歌仙(歌仙の間)です。
西本願寺は、豊臣寄り。
飛雲閣も、京都御所の隣にあった豊臣京都新城にあったものを、今の場所に移築したのだとされています。(聚楽第説は最近の研究で否定的)

偶然かもしれませんが、三十六歌仙は、何かと豊臣と繋がっているのです。

整理してみましょう。
豊臣と、徳川。
西本願寺と、東本願寺。
飛雲閣と、渉成園。
日本的教養と、中国的教養。
和歌と、漢詩。
木下長嘯子と、石川丈山。
三十六歌仙と、三十六詩仙。

対応していませんか。
丈山自身、意識していたように思うのです。

三十六詩仙というものを新しく作り出し、学者と相談し、日本一の画家にそれを描かせたのは、
中国的価値観(朱子学など)を取り入れて日本の武士を教化していくという徳川の政策に、石川丈山自身が共鳴するのだという、その表明であり、シンボルである、と。
みなさんは、どうお感じですか。

文人 石川丈山の夢の跡、詩仙堂。
今は、お寺の方々が手塩にかけた花々が四季折々に咲き誇っています。
文中に挿入しただけでは紹介しきれないほど、数多くの品種があります。
ぜひ、いちど足を運んでみてください。

2020.11.09一部修正いたしました。

参考資料

京都・山城 寺院神社大辞典 平凡社
京の古寺から3 詩仙堂 淡交社
石川丈山と詩仙堂 自費出版 山本四郎
京都名庭を歩く 光文社新書 宮本健次
日本茶の湯文化史の新研究 雄山閣 矢部誠一郎
丈山苑公式ホームページ
石川丈山研究余話 山本四郎
「枳殻御殿古之記」について 村岡正
鴨川倭歌考 伊東勉
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この記事を書いたKLKライター

写真家
三宅 徹

 
写真家。
京都の風景と祭事を中心に、その伝統と文化を捉えるべく撮影している。
やすらい祭の学区に生まれ、葵祭の学区に育つ。
いちど京都を出たことで地元の魅力に目覚め、友人に各地の名所やそれにまつわる歴史、逸話を紹介しているうち、必要にかられて写真の撮影を始める。
SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

主な実績
京都観光Navi(京都市観光協会公式HP) 「京都四大行事」コーナー ほか
しかけにときめく「京都名庭園」(著者 烏賀陽百合 誠文堂新光社)
しかけに感動する「京都名庭園」(同上)
いちどは行ってみたい京都「絶景庭園」(著者 烏賀陽百合 光文社知恵の森文庫)
阪急電鉄 車内紙「TOKK」2018年11月15日号 表紙 他
京都の中のドイツ 青地伯水編 春風社
ほか、雑誌、書籍、ホームページへの写真提供多数。

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京都の風景と祭事を中心に、その伝統と文化を捉えるべく撮影している。
やすらい祭の学区に生まれ、葵祭の学区に育つ。
いちど京都を出たことで地元の魅力に目覚め、友人に各地の名所やそれにまつわる歴史、逸話を紹介しているうち、必要にかられて写真の撮影を始める。
SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

主な実績
京都観光Navi(京都市観光協会公式HP) 「京都四大行事」コーナー ほか
しかけにときめく「京都名庭園」(著者 烏賀陽百合 誠文堂新光社)
しかけに感動する「京都名庭園」(同上)
いちどは行ってみたい京都「絶景庭園」(著者 烏賀陽百合 光文社知恵の森文庫)
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