京都市北区、紫野 建勲神社。
織田信長を祭神として祀っており、とくに歴史ファンには知られたところです。
こちらが所蔵する、信長の一代記があります。
実際に目撃したものを綴った信長公記
「信長公記(しんちょうこうき)」。
信長の部下として近くに居た人物が書き記したもので、信頼性が高いとされており、現在でも戦国史研究の下敷きになっています。
永禄11(1568)年、秋。美濃国を治めていた、織田信長は、足利義昭とともに京都を目指して軍事行動を開始しました。
いわゆる「上洛戦」です。
信長が、敵対勢力を打ち破りながら、京都に踏み入ったのは旧暦9月28日。
信長は東福寺に陣を張り、翌29日には更に西の洛西方面へ移り、さらに大阪方面へと戦いを進めていきました。
この上洛を記念して、建勲神社では、例年、10月19日に船岡大祭というお祭りが行われています。信長の業績を顕彰する行事です。
(※本年2020年は、新型コロナウィルス流行のために、神職及び総代ほか最小限の関係者のみで斎行されます)
さて、信長の上洛。この歴史的記述を、私は、先述の信長公記を元にして書いています。
作者は、太田牛一(ぎゅういち。うしかず、とも)。
尾張国の出身で、信長の部下として長年仕えていた人物です。
信長公記は基本資料としてよく引き合いに出されますが、どのように書かれたのでしょうか。
牛一は、文中でこんなことを言っています。(池田本 信長公記第十三巻 奥書より)
「私が、日記のついでに書き溜めて来たものが、自然と集まった。(そしてこの本ができた)。
だから勝手な作り話ではない。あったことは、削らないし、なかったことは、付け加えない。もし、一点でも偽りを書くとすれば、天の道はどうなるだろうか?」
彼がコツコツと見聞したことを書いてきたメモがあり、それをまとめた、事実を重視して、創作はしていない、というのです。
この時代、記録を残したのは、彼だけではありませんでした。色んな人達が日記などを記しています。
ですから、複数の記録を突き合わせて検証すれば、嘘を書いていることは、かなりの割合で分かってしまうのです。
牛一にも間違いはあります。信長の汚点に対して、言葉少なになることもあります。しかし、意図的な嘘はない、特に年代が下った部分の記述は信憑性が高い…ということが、のちの歴史家によって評価されました。
ですが、そんな牛一の信長公記も、江戸時代の間は、活字印刷されることもなく、幾つかの手書き写本が大名家などに所蔵されているだけで、ひっそりと眠っていました。
信長公記が日の目を見るのは、明治時代に入ってからのことです。
それは、もう一人の記録者が書いた「信長記」が流行りに流行り、牛一の記録が忘れ去られるほど、人気が偏ったからなのです。
巧みな演出がなされた甫庵の信長記
もう一人の男。
小瀬甫庵(おぜ ほあん)、といいます。
北陸の前田家に仕えた医者であり、文学者でもありました。
牛一からは37歳下で、ひと世代~ふた世代、後の人です。
甫庵は、牛一の記録を下敷きにして、あたらしい物語 信長記(しんちょうき)を作り上げます。
後発ですから、どうしても先人と比較されます。
そこで、甫庵は、自分の独自性についてこう表明します。
「太田牛一という人がいた。織田信長の功績を後世に伝えようとして記録を残したが、その記述は素朴で簡略。戦場を駆け多忙な中での記録だったので、抜け・漏れがあった。私はそれを補った」
また、他の本になりますが(太閤記)、甫庵はさらに手厳しいことを書いています。
「泉州(牛一のこと。和泉守を名乗っていた)は生まれつき愚直で、最初に聞いたことを真実だと思い込み、たとえ、その場にいた人が、あとから事実はこうだったよ、と訂正しても、頑として聞き入れなかった」
甫庵は、牛一が書いた記録の短所を挙げ、自分の記述は、後発ではあるが、改善を行ったより優れた記述だ、と世の中にアピールしたのです。
たしかに、甫庵は、牛一に比べて文章が達者で、同じ場面を読み比べると、意味が取りやすかったり、巧みな演出がなされていたりします。その意味でも、甫庵は、牛一を超える記述者ではあったようです。人々に受け入れられたのも頷けます。
信長記の欠点
ただ、甫庵には「話を作る」ところがありました。
平成に入った頃、桶狭間合戦が奇襲だったのかどうか?という論議が始まりました。
甫庵・信長記には、織田信長は、数少ない味方で大軍率いる今川義元を打ち破るため、雨の中、回り道をして側背に回り込み、奇襲をかけたと書いてある。
しかし、牛一・信長公記には、回り込んだとも、奇襲をかけたとも記されていない。
もういちど、桶狭間合戦の様子を、考え直すべきなのではないか…と、いうのです。
それは、甫庵が、桶狭間の勝利を劇的に演出するため、あるいは少数の織田軍が今川軍に勝った要因を合理的に説明するために、無かった話を創作して付け加えた部分だと言われます。
甫庵は、事実であることよりも、わかりやすさ、面白さを重視し、脚色も辞さない方針だったようです。
甫庵の書いた信長記は、印刷され、脚光を浴び、その記述は定説になっていきました。
後世、私達が小説・漫画その他物語の基本になったのは、甫庵による信長記です。
そして、彼が付け加えた尾ひれの部分も、その面白さ、わかりやすさのために重宝され、「歴史」として定着するに至りました。
このことは、同じ時代に生きていた武士にも指摘されていました。
大久保彦左衛門という人がいます。徳川家に仕えた人で、「三河物語」という本を書き記しました。そのなかで、甫庵信長記のことを批判しています。
「信長記を見ると、偽りが多い。三分の一は実際に有ったことだ。もう三分の一は似た出来事があったことだ。最後の三分の一は跡形もないことだ」
しかし、桶狭間奇襲説が歴史的事実として受け入れられ、講談師が桶狭間の奇襲を語り続け、日本陸軍が奇襲を前提に「日本戦史」を編纂し、歴史小説家が奇襲戦をいかに劇的に書くか腕を競い、現代の大河ドラマや歴史バラエティ番組でも、信長の奇襲における手腕と情報力がどんなに見事だったか…と語る時、それは、もうただの作り話ではなくなっていました。
ほかの場面においても、同様の事が起こっていきました。
ノンフィクションとフィクションの区別がなかった時代のせい?
これは、事実を最優先にした歴史書と、小説のような作り話の区別が、江戸時代初期には、明確ではなかったからこそ、の話かもしれません。
牛一が書いていたのはノンフィクション、実録ものです。
甫庵は、創作物語の手法を使っていますから、現代でいうなら歴史小説家で、「これはフィクションです」という但し書きを付けて執筆している限り、二人は違う土俵にたち、それぞれの分野の中で評価を受けるはずのものでした。
両者が混同され、牛一が日陰の扱いを受けたのも、甫庵が後の世にあたかも「嘘つき」扱いされてしまったのも、また、時代のせいだと言えるでしょうか。
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再発見された牛一の信長公記
牛一と甫庵。その立場は、明治時代に入って逆転しました。
東京日日新聞(今の毎日新聞)の記者だった甫喜山景雄(ほきやま かげお)は、太田牛一を高く評価。
はじめて、信長公記の活字版を発行します。
彼は、いいます。
「(信長公記は)目撃した事を筆記したものだ。これを甫庵が潤色したものが後世に伝わった。甫庵が言うには、牛一は見聞きしたことに偏執する人物だと。しかし、歴史のことを、見聞きしたものに拘ることは、文飾に流れるよりも、良い」
こうして、実証的な態度で書かれた信長公記が、「再発見」され、脚光を浴び、甫庵の信長記は資料としての価値を否定されていくのです。
その失墜ぶりは極端なほどで、甫庵信長記を擁護する論調はほとんど聞かれなくなります。
文明開化により、近代「歴史学」の考え方がもたらされた事も影響しているのでしょう。
時代の波に揉まれ、浮かんだり、沈んだりした、二人の記録者たちの、不思議な因縁。
現在、織田信長研究の底本として用いられているのは、牛一の信長公記です。
明治2年。京都の船岡山に、織田信長を祭神として建勲神社が創建されました。
ここに、信長公記が納められています。
実は、公記には、自筆本や写本など幾つかの種類があり、少しずつ内容が違うのですが、神社にあるのは、牛一の自筆本のひとつ。
建勲神社本と呼ばれ、重要文化財になっています。
もし、信長公記がなかったら、戦国史研究はどうなっていたか。
牛一の著作は、2百年以上の眠りを経て、評価され、ついに敬愛する主君の元にたどり着いたのです。
信長は、泉下で「大儀!」と褒めているでしょうか。