明智光秀の家紋「桔梗」の花言葉をご存知でしょうか?
1
「キキョウが恋人のために一生涯待ち続けた娘であったという物語」に由来する。
2
「昔は好きな恋人や夫がいくさに行っていつ帰ってくるかわからない、けれども無事を祈り、その人だけをずっと永遠に待ち続けるという一途でひたむきで切ない女性を表した花言葉なんです。純愛とも言えますが、とても切なく待つ側の女性にとっては哀しい一面もあります」
3
「桔梗の花言葉は、徴兵された夫を10年間待ち続けた妻の物語から来ています。夫がようやく戦場から帰ってくる日、妻は喜んで宴の準備をしていました。帰ってきてその様子を見た夫は、別の男と結婚したと勘違い。夫に疑われた妻は身の潔白を示すために自害。真実を知った夫も後を追った、という悲しいお話から来ています。」
即ち、
「永遠の愛」(変わらぬ愛)
「誠実」・「従順」
「清楚」です。
光秀にぴったりですね。
「乱世の後、仁徳のある治世をした王」が麒麟となる。
*上司への愛(信長)・・・・「家中軍法」(最後に信長への感謝と忠誠の言葉)
*煕子への愛(妻)・・・・・「芭蕉の俳句」(月寂よ、明智が妻の話せむ)
*部下への愛(18名の兵士)・・・・「供養米の寄進状」(西教寺に残る)
暴君と言われる信長と違って、「仁のある政治をした光秀」に「麒麟が来る」のである。
亀岡の谷性寺には、5万本の桔梗が咲き誇っているようです。
440年ぶりに、「謀反人」の汚名が消されるとしたら、福知山城下町は、大きく誇りうる価値となります。
「光秀が、築いた城下町」として。福知山城から御霊神社へのルートは、光秀ストリートとしてのその価値を高めます。
中心市街地を再活性化するチャンスとなります。
まさに「中心市街地活性化事業の核」となりうる出来事なのではないでしょうか!
明智光秀の再評価
「逆臣」の汚名をきせられた光秀の築いた「福智山城」は、明治5年に明治政府によって廃城とされましたが、福知山市民はその150年後の昭和61年に、その光秀の天主台の上に、福知山城を再建しました。
「謀反人」の汚名をきせられた光秀は、1582年、秀吉によって山崎の戦いで敗れましたが、領民(町人)は、その123年後の1705年に光秀を<御霊神>として御霊神社に祀りました。
以来、300余年にも亘って福知山の御霊神社は、光秀を崇敬して来たのです。
そして、その御霊大祭の継続的な執行は、福知山を大きく発展させる礎となりました。
「謀反人」として殺された光秀は、437年を経た今漸く、「丹波を治め、善政を敷いた武将」として見直される日がやってきました。
「麒麟が来る」のです。
2020年1月から放映中のNHK大河ドラマ、その主人公が「明智光秀」なのです。
福知山市民として、光秀は、誇れる武将となった。
「本能寺の変」は、谷性寺の不動明王から授けられた「一殺多生の降魔の剣」によって行われた「天誅」だったのです。
一つの歴史的事件は、「時代」によってその評価が変わってゆきます。
本能寺の変は、万世一系の世界を守るために、絶対君主<暴君の信長>を討った「天誅」だったと解釈されるのです。
人を不幸にしてでも、勝ち上がることに成功した者を賞賛する社会よりも人を大切にして、人々の絆を築き上げる社会のほうが値打ちがある。
信長よりも、光秀のほうが< 仁>のある政治をしてくれただろうと思います。
光秀が< 麒麟>にふさわしいのではないでしょうか。
光秀の丹波平定は、まさしく「麒麟が来る」事象と言ってもいいでしょう。
光秀は、家中軍法を福智山城で書きました。
その中で、主君信長に取り立ててもらった事を最大限の感謝を込めています。
本能寺の変の丁度一年前の事であります。
「日向守のこの度の働き、天下の面目を施し候」(織田信長)
明智光秀関連の名言
ときは今 天が下しる 五月哉 (愛宕百韻の発句)
辞世の句①
順逆無二門 順逆に二門なし
大道徹心源 大道心源に徹す
五十五年夢 五十五年の夢
覚来帰一元 覚め来たりて一元に帰す
(信長を討った後、京都・妙心寺にて)
辞世の句②
心知らぬ人は 何とも言わば言え
身をも惜しまじ 名をも惜しまじ
『永源師檀紀年録』
*ガラシャ(光秀の三女で細川忠興の正室)の辞世の句
散りぬべき とき知りてこそ
世の中の 花は花なれ 人は人なれ
*頼山陽(江戸時代の歴史家・思想家)の名言(1827年「日本外史」作)
「敵は本能寺にあり」
頼山陽元唄下に.:
吾敵正在本能寺
敵在備中汝能備
*松尾芭蕉の句(1689年奥の細道の帰り、伊勢神宮で詠む)
月さびよ 明智が妻の 咄せむ (松尾芭蕉の句)
*亀岡/谷性寺にて
「一殺多生の降魔の剣を授けたまえ」(本能寺の変前に不動明王に祈る)
*織田信長が丹波を平定した光秀に対して
「この度の 日向守の働き 天下の面目を施し候」(織田信長)
*福知山音頭
明智光秀 丹波をひろめ ひろめ丹波の福知山
福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ
福智紺屋町 御霊さんの榎木 化けて出るげな 古狸
*(老人雑和/伊藤坦庵より)京都新聞2019年1月24日文化版
「明智日向守(光秀)が曰く、仏のうそをば方便と云い、武士のうそをば武略と云う
土民百姓はかわゆきこと也と。名言也)
明智光秀を好きな12の理由
1 福知山城を築き、福智山と命名した。(天正七年ころ)
2 明智藪をつくり、由良川の流路を変え、城下町を造った。
3 信長へ忠誠を誓う「家中軍法」を著した。(天正九年六月二日)
4 本能寺の変で下剋上、織田信長を討った。(天正十年六月二日)
5 祝言の席で、妹だと見破り,「熙子」を妻とした。(外見でなく人格を)
6 比叡山攻めの後、麓の「坂本」を治め、坂本城を築いた。
7 側室を持たず、一人熙子を正妻として貫いた。
8 鉄砲の名手や連歌の作者として名をはせた。(文武両道)
9 奪った墓石の代わりに、寺に寄進したり、石がんを立てたりした。
10 妙心寺に白金十枚(1700万円相当)を寄進し、5年後「明智風呂」ができた。
11 暴君の信長に対して、伝統や家来や領民を大切にする光秀だった。
12 没後123年頃、町人や常照寺上人によって御霊神社に配神され神となった。
文責:広小路 吉田博 2016年6月13日光秀忌にて