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長岡京建設から約10年、さらに新しい都が作られました。
平安京です。
この遷都は早良親王の怨霊を恐れたためであり、「平安」とは、前の都である長岡京での騒動を逃れることを念頭に名付けられた、という意見があります。
はたして、そうなのでしょうか。
前後の経緯を確認してみましょう。
西暦794(延暦13)年10月22日。
桓武天皇は、ふたたび都を遷すことにしました。
華やかな行列を仕立て、長岡京を出て、北東にある、葛野郡宇太村の地へ移ります。
6日後の、10月28日。
東方から、使者がやってきて、桓武帝に「戦いに勝った」ことを報告しました。
じつは、この時、東北地方は朝廷に服属しきっておらず、これへ向けて、大規模な遠征軍が送り込まれていたのです。
司令官は、史料に見える最初の征夷大将軍 大伴弟麻呂(おおともの おとまろ)。
なお、有名な坂上田村麻呂は、この時、副官として参加し、活躍しています。
その規模は…記録によれば…総勢10万人という、途方もないものでした。
その東北遠征軍が、戦いに勝ったというのです。
移転したばかりの桓武帝と、周囲の群臣は、じつに、喜んだことでしょう。
勢いのままに、桓武帝は、都を遷すことを、正式に公表します。
同日、10月28日、集められた群臣の前で、遷都の勅(みことのり)を発したのです。
10日後、11月8日には、新しい都の名前が決まりました。
「平安京」です。
漢語よみで、ヘイアンキョウ。和語では、たいら(たひら)のみやこ。
同時に、都のある山背(やましろ)の国の表記を変更し、「山城」とすることも、併せて、決められました。
これによって、山城国が諸国の筆頭であると表明され、これまで都があった大和国などとの差別化が図られたのです。
恐らく、奈良の昔へ戻そうとする勢力を牽制するためでしょう。
「此の国は山河襟帯にして、自然に城を作す、其の継承に因みて、新号を制すべし。宜しく山背国を改めて、山城国と為すべし。又子来の輩、異口同音辞し、号して平安京と曰す」(『日本紀略』延暦13年)
これが、平安京遷都の経緯です。
都を遷すと決めた時、東へ送り込んだ遠征軍から、戦いに勝ったという知らせが届く。
みんなが盛り上がる。その興奮のさなかに、号令を出す。
ドラマのようです。はたして、偶然でしょうか。
意図的だった、という人もいます。
「遷都と同時に辺境から戦勝報告が届くという奇跡を自ら起こし、二度目の遷都を劇的に演出したのである」
(『蝦夷と東北戦争』鈴木拓哉)
前もって平安京の造営が初められていました。
遷都そのものは決まっていたのです。
そもそも、大伴弟麻呂の任命式(受節)は、遷都準備の進む仮の宮殿内(長岡京東院)で行われました。
遠征軍からの経過報告は、随時、届いていたでしょう。それをもとに、桓武帝は、ある時点から遠征軍がおそらく勝利すると予測し、この勝報を政治的演出に活かしたのでしょう。
この時代の事を知るために、何冊かの書籍に目を通しました。
桓武朝時代を通じて、一貫して感じることがあります。
桓武帝は、自分が世の中からどう評価されているか、非常に気にかけていたようです。
だからこそ、自らを権威付ける演出に拘ったのです。
これは、桓武帝の出自も影響しています。
彼は、皇族ではあったものの、母の出自が低いなど、天皇の位につくには、背景が不十分でした。
若い頃は、役人として働いていました。
比較的一般人に近い形で暮らしていたものが、当時の皇太子だった弟が政治争いに敗れるなどして、偶然によって皇位を継いだのです。
「皇太子となるまでに紆余曲折のあった彼は、即位した後も天皇としての権威が十分ではなかった。そのため彼は、自らの即位と統治権の正当性を行動によって示す必要があり、このことが二度の遷都と三度の征夷を実施するに至った桓武朝に固有の事情である」
(同『蝦夷と東北戦争』)
「桓武が当初の失敗をものともせず、巨費を投じてこの二大事業を推進したのは、国家的な課題を意識したことはもちろんであるが、一方には卑母所生の天皇という自身のマイナスイメージを払拭する必要があったからであろう」
(『桓武天皇 造都と征夷を宿命付けられた帝王』西本昌弘)
桓武帝にとって、長岡京造営は、政治生命を賭けた挑戦でした。
しかし、長岡は、交通の便に優れるなど、宮城の立地については工夫があったものの、市街地域は水害に弱いことが判明、限界に直面し、もういちど遷都する必要が出てきます。
彼にとっては失策であり、声望を損ないかねない事態でした。
それを、ひとつの政策の成功、つまり戦争での勝利を喧伝することで負から正へ転化しようとしたのでしょう。
「失敗じゃありません、戦争に勝ちましたよ」と。
つまり、「平安京」を構想していたとき、朝廷は大規模な征夷戦争のさなかだったのです。
桓武帝の代になって二度目の大遠征でした。
一度目の遠征は五年前(789:延暦8年)。このとき、遠征軍は負けました。
したがって、第二次遠征、794(延暦13)年の勝利は、朝廷にとって待望の軍事的成功でした。
これを踏まえた時、「平安」の言葉に違った印象が加わりはしないでしょうか。
この経緯で、東北地方の戦いを意識しないはずが無いと思うのです。
もちろん、都を名付けるにあたって、一つの事柄に拘ることはありえません。
戦いに勝って国境が安全になるように。洪水や怨霊などに悩まされないように。
そして、国家が安泰でこの王朝が末永く続くように。
という大きな願いが込められていたでしょう。
ただ、東北の戦争について、ほとんど顧みられていないのは不審です。
長岡京から平安京へ移転した理由は、冒頭に述べた怨霊説のほか、幾つか、唱えられています。
1)早良親王の怨霊に対する畏怖(桓武帝の弟で、反逆を疑われ非業の死を遂げていた)
2)長岡京の二度に渡る大水害
3)長岡京と宮城の造営の遅れと機能的未熟さ
4)桓武帝の周辺で生母の死去など不幸が続いたこと、その死穢への恐れ
などです。
では、「平安京」とは、やはり、怨霊から逃れたいと考案された名前なのでしょうか。
怨霊や死穢については、あまり過大評価しないように、という指摘があります。
・早良親王の怨霊が強く意識されたのは、平安京遷都以降であること
・呪術的な対策ではなく、莫大な費用を要する遷都事業を行っており釣り合いが取れないこと
・桓武帝が平安遷都の準備に入ってから2年近く、長岡京域内(東院)に滞在し続けており、遷都後も、長岡京の跡地を、土地再利用として近臣などに下賜しており、忌避感が見えないこと
これらを踏まえると、平安京遷都の主導因としての怨霊や死穢は、限定的に見るべきだというのです。
(『恒久の都 平安京』 西山良平・鈴木久男編 吉川弘文館)
「祟りは対象が個人であっても複数人であっても人に憑くものであり、祟りを引き起こす霊を鎮めない限り、場所を変えても祟りからは逃れられない。それは、桓武天皇が平安京に遷都した後も、ことあるごとに早良親王の怨霊に苦しめられ、800(延暦19)年に早良親王を崇道天皇と追称し(中略)たことからもわかる」
(『古代の都 なぜ都は動いたのか』網伸也ほか 岩波書店)
繰り返しますが、新しい都に雅名をつけるなら、そこに込めるのは政治的信条ではないでしょうか。
桓武帝は自らを「中興の祖」、いわゆる第二創業者として考えていたようです。
現在直面する政治的課題を克服し、安定した政治体制を作り上げ、それを後世まで受け継ぐことを目指して、今まさに奔走中なのです。
じつは、東北地方の征夷戦争は桓武の父帝、光仁天皇の代から続いていました。そして、桓武帝の治世だけでは終わらせられず、息子である嵯峨天皇まで持ち越されました。
後に、文室綿麻呂が「宝亀五年より当年に至るまで、惣て三十八歳、辺寇屡動きて、警□絶ゆること無し」という発言をしています。
中断を挟んでいるとは言え、38年に及ぶ戦争です。
桓武時代はその真っ只中にあたります。
戦場に近い東国の諸国は人的・物的な負担を強いられていました。
具体的な命令が記録に残っています。
坂東諸国に莫大な食料(26万斛)を供出させたこと、駿河や信濃以東の諸国に革製の鎧を2千領作らせたこと。
ついで、これらの負担が東国に偏っている上、富裕者が徴兵などの負担を免れているので、武具を作る財力を持っている者を調査・報告させたこと。
討伐軍に対しては、派遣した軍隊の進行速度が遅いために「食料を浪費している。急いで前進せよ」という叱責まで出しています。
微細な命令は、桓武帝が諸国の状況に気を配り、把握していたことを示唆しています。
桓武帝は仕事熱心で、毎日紫宸殿で聴政に励んでいたそうです。
戦地で、どれぐらいの領民が、経済的負担を強いられたか、
兵員にどのぐらいの人的損失が出たか、どれだけの地域が戦火に焼かれたか。
それらを、かなりの程度、知ろうとしていたでしょう。
征夷戦争のさなか、桓武帝のいわば「軍縮」政策も行われています。
強制的に集められた農民兵の負担が余りに大きすぎ、士気が上がらず、練度が低かったなどの理由から、徴兵制を改め、志願兵中心の制度に切り替えています。
健児(こんでい)の制といいます。
これによって東北と九州を除き、朝廷主導の「軍団」は解体され、地方の有力者の子弟を中心とした新しい軍事体制に切り替わり、武士の時代の下地となるのですが…それは、まだ先の話です。
今回は、桓武帝が、民生も見ていたと指摘するにとどめます。
桓武帝の夫人藤原旅子、母親の高野新笠、皇后の乙牟漏が立て続けに亡くなり、皇太子の安殿親王が病に臥せった時、占いをし、早良親王の祟りであるという宣託が出ていましたので、遷都するに当たり、「祟りによって皇室に不幸が続いたので遷都する」と宣言しようと思えば、出来たかもしれません。
桓武帝が、内心、どのくらい祟りを恐れていたのかはわかりません。実は、夜も眠れないほど恐れおののいていたかもしれません。
彼は、死の直前にも遺言として早良親王の供養を命じています。深く意識していたことは確かです。
しかし、実際に公的に宣伝に使われたのは東北遠征軍の勝利でした。
桓武帝と近臣が、戦勝をテコにしたほうが、より、世間を納得させられると判断したからでしょうし、実際に東北遠征に政策的比重がかかっていたことは、先に説明したとおりです。
「平安京」の名付けに当たって、東北の戦いを終わらせて国境を安泰にすること、といった現実的課題を失念したとは思えない、というのが、いまの私の意見です。
即位したときには不安定な立場であった桓武天皇ですが、造都と征夷、ふたつの難事業をある程度成し遂げ、自らの権威と皇統を安泰とするが出来ました。
その意味において、「平安」のひとつは達成できたと言えるでしょうか。
しかし、東北地方の戦争はまだ終わりません。
坂上田村麻呂 率いる第三次遠征は延暦20(801)年、平安遷都の7年後でした。
この後、国内の疲弊を理由として、都の造営と外的遠征の中止が宣言されますが、実際に東北遠征が終わるのは嵯峨天皇の時代、弘仁2(811)年のことです。
関東地方は、38年の対東北戦争のあいだ、遠征の負担を強いられますが、それゆえに尚武の気風がのこり、各地の領主が営む私兵団、つまり武士団が勃興する下地の一つとなります。
武士団を抑制するべき国の中央軍は、桓武帝により解体されてすでになく、平将門が反乱を起こした時、それを鎮圧したのも、また別の武士団でした。
将門は桓武平氏の出身…桓武天皇を祖とする一族が、皇籍を離れて平(たひら)という姓を名乗り、一般人となったものです。なお、平氏の名前の起源には諸説ありますが、平安京の「平」ではないかという説もあります。
平安時代後期が武士の時代となっていく伏線は、桓武帝本人によって引かれたものと言えるかもしれません。
京都を学ぶ(洛西編) 京都学研究会編 ナカニシヤ出版
古代の都 なぜ都は動いたのか 吉村武彦、吉川真司、川尻秋生 岩波書店
恒久の都 平安京 西山良平 鈴木久男 吉川弘文館
蝦夷と東北戦争(戦争の日本史3) 鈴木拓哉 吉川弘文館
桓武天皇 造都と征夷を宿命付けられた帝王 西本昌弘 山川出版社
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