京都市西京区、大原野から東を眺めると、丸く盛り上がった丘が見えます。
ちょうど水を張った田んぼが、なだらかに、海のように広がっています。まるで島が浮かんでいるようです。

これは、長岡丘陵、もしくは向日丘陵と呼ばれる丘の一部です。
平地の中にぽっこりと突き出した特徴的な地形を見ると、私はまず、中世のお城があるかないか確認してしまいます。
もし、城ではなくても、神社やお寺、墳墓、有力者の住居などといった、人の崇敬を集めるものを置かれることが多いです。

それは、水害などの被害を受けにくい、軍事的に攻められにくい、などの保安上の条件ももちろんなのですが、遠くから見上げられる、という視覚的効果が、崇拝や信仰の心と結びつきやすかったから、というのが一因でしょう。

ピラミッドにせよ、自由の女神像にせよ、城の天守にせよ、お寺の五重塔にせよ、見上げる構造物はモニュメントとしての性格を帯びがちなのです。
それは、山や丘といった自然の地形も同じこと。

近づいてみましょう。

かなり強い傾斜のあることが、伝わるでしょうか。
崩落への注意喚起をする立て看板があります。

ここは、京都府向日市と長岡京市の境目あたり。
向日丘陵は、北は西京区太枝のあたりから始まり、ほぼ真っすぐ南へ伸びていきます。

この斜面と階段の急なこと。

丘陵の西側には、小畑川という川が流れています。
小畑川はよく氾濫を起こす、いわゆる暴れ川で、その洪水によって何度も削られた結果、この急斜面が出来たのです。(段丘崖)

もし、堀や石垣などを組み合わせたら、堅固な城塞になるだろうな…と考えるのは戦国好きの癖でしょうか。

登り切ると、平坦地に出ました。
大きな木造の建築物が立っています。これは、向日神社(むこうじんじゃ)の本殿です。

向日神社は、乙訓地域の中心的な神社の一つです。

室町時代には、周辺の地方領主(国人)たちが勢力を持ち、村々を治めていました。彼ら国人たちは、室町幕府や守護大名から税金や戦いなどの要求があったときなどに、互いに団結して、大きな自治勢力となり、自分たちの利益と生活を守ろうとしました。
大きな勢力と対抗するには、団結心が必要です。彼らは守り神としての向日神社を軸として、神前で盃を交わすなどして関係を深め、話し合いなどもここで行っていたのです。
「西岡惣国の鎮守」と呼ばれ、周辺地域の精神的支柱となったのが、この向日神社です。

私は先程、「神社やお寺、墳墓、有力者の住居など」と言いました。
お墓、つまり古墳も、長岡丘陵には残っています。

向日神社の境内すぐそばにある、元稲荷古墳です。
四世紀の建造で、乙訓地域ではもっとも古いとされています。

元稲荷古墳だけではありません。元稲荷古墳(京都最古の前方後方墳)、北山古墳(現存せず)、五塚原古墳(箸墓古墳と類似する)、妙見山古墳(現存せず)、寺戸大塚古墳、伝高畑陵古墳(京都で最大級の円墳)等が長岡丘陵に集まっているのです。

長岡京市ホームページより「国史跡乙訓古墳群」。赤線強調は筆者

ということは、この丘陵の近くには、周辺地域を治めていた有力者がおり、彼らがこの丘を特別視した結果、長い期間をかけて墳墓が営まれた…そう言って良いと思います。

長岡丘陵が、歴史的に乙訓一帯の中でも崇敬を集めやすい場所であった、と納得頂けるでしょうか。

この丘、お城はありませんでしたが、それ以上に大きなものはありました。
長岡宮、つまり長岡京の宮殿です。

長岡京市ホームページより「長岡京とは」

西暦七八四年、桓武天皇は大和の平城京から山城の乙訓へと都を移しました。
その理由は「水陸の便がある」、つまり陸上・水上の交通に優れた土地であるから、と勅命に明記されています。
当時、物流の要は水運でした。とくに重量物を運ぶなら船が最適でした。大きな川は、いわば現代の高速道路のようなもの。

桂川・宇治川・木津川が合流して淀川になるところに港を作り(山崎津)、近くに都を建設できれば、たいへん便利になります。現在に例えれば、首都のすぐ側に、三本の高速道路にアクセスできるインターチェンジがあるようなものです。

その都は、「長岡」と呼ばれた丘陵一帯に造られたことから、長岡京と呼ばれたのですが、これが先程から説明してきた長岡(向日)丘陵のことです。

向日市のホームページから、図を拝借しましょう(必要部分をトリミング。一部強調処理)。
都の中心である大極殿と内裏は長岡丘陵の上に築かれました。

向日市ホームページより。四角強調は筆者

左の黒い四角囲みが、元稲荷古墳と向日神社。
すべて丘の上にあることが視覚的に理解できると思います。

真ん中の赤い四角囲みが、長岡京の大極殿や朝堂院(儀式や政務の機関)。海抜約34m。
右の赤い四角囲みが、内裏(天皇の居住空間)。海抜約30m。
西側(右京)のからの高低差は約20mに及びます。

なお、向日神社と元稲荷古墳のある場所は海抜約50m。
大極殿等は丘の最上段ではなく、一つ下がった場所に、内裏はさらに下に位置します。
大極殿等が少し低い場所を占めたのには、いくつかの理由が想定できます。

1)高所がすでに他の施設に占められていた
四世紀に造られた元稲荷古墳はもちろんのこと、向日神社は奈良時代の創建(七一八年)で、長岡京に先立つこと約六十年。
したがって、神社移転を伴わない限りこの場所を使うことは出来ませんが、桓武天皇は向日神社を崇敬したとも言われ、この選択肢はあり得なかったでしょう。

2)宮都設計上の都合
大極殿や内裏などを建設するには、かなり大きな平坦地が必要です。
自然の平坦地だけでは足りず、傾斜地を掘ったり埋めたりと大規模な土木工事が行って、ようやく建設できる場所が確保できたそうです。高さだけにこだわるのは難しかったのでしょう。

設置場所について試行錯誤した形跡があります。
最初の内宮はより高所にある西側に造られ(第一次内裏、西宮)、4年3ヶ月間使用されましたが、儀式などに必要な大きさを確保できなかったために、より東側(第二次内裏、東宮)に移転しています。西宮は発掘が思うようにできず、所在地の確定までには至っていませんが、現在の向陽小学校近辺がそうであると推測されています。

もういちど図を示します。

向日市ホームページより

先程の長岡宮近辺をさらに拡大し、青い囲みを追加しました。
この青い四角が、最初の内裏、西宮を建設したとされるあたりです。
しかし、より広い敷地を求めて東側へ移された。

長岡京の中心施設は、地形を活かしたり、逆に制約を受けたりしながら場所を決めていたと考えてよいかと思います。

では、なぜ大変な思いをして丘の上に施設を作ろうとしたのか。
私は、権威付けのためだと考えます。

長岡京を発掘した中川修一氏の言葉が書籍に引用されていました。
「見てください。これですよ。長岡宮は、長い丘の上にあるんですよ」
「飛鳥の都も藤原宮も、平城宮もみんな平地に造られました。ところが、こうやって見上げるところの長い丘の上に都ができた。(中略)やっぱり都というものは上に見上げるところにありたい」
(「桓武と激動の長岡京時代」山川出版社P14)

都の中心地を一段高いところに置く。
朝廷からは市街地、そして乙訓を都に定めた主眼である港をはじめとした周囲が見え、変事があっても把握しやすい。
長岡宮へ向かう人は、朝堂院や内裏などを見上げながら坂を上がる。

長岡丘陵を例えるなら、和室の床の間のような場所であり、他の床面とは高さによって区別されています。
宮の建物はより高く感じられ、より広い範囲から見えたことでしょう。

羅城門の南から見た長岡京の図

羅城門の南から見た長岡京の図

「桓武と激動の長岡京時代」より

それは長岡京遷都より古くから古墳や神社などが置かれるなどして地域の崇敬を集めていた場所で、そこに沿うことで、旧来の崇敬をそのまま朝廷に向けることが出来る。

乙訓地域の中で「見上げる」というコンセプト、基本理念を実現しようと思えば、長岡丘陵は最高の立地でした。

しかし、長岡京は十年で廃止され、都は平安京へと移っていきます。
理由は諸説ありますが、このうち、三つを挙げてみます。

1)造営が思い通りに行かなかった(遅延説)
2)怨霊を恐れた(怨霊説)
3)自然災害が起きた(災害説)

遅延説は、長岡京の建造が計画通りに行かなかった事を重視します。
大極殿、朝堂院や内裏が地形の制約を受けて自由に作れず、内裏が大極殿よりも一段下になってしまったこと、都市域の東側(左京)建造が桂川の低湿地に阻まれたことなどがあり、和気清麻呂が「長岡新都が10年をへてなお完成せず、費も多いことから、ひそかに桓武天皇に奏上して葛野の地を新都としてすすめた」という伝承が残る点もこの説を補強しています。

怨霊説はもっとも知名度が高い説でしょうか。
桓武天皇の弟である早良親王は、当時の大臣暗殺の嫌疑をかけられて皇太子の位を廃され、淡路国へ流罪と決まりました。早良親王はこれに反発し、無罪を訴えるとともに食事を拒否し、死に至りました。
七年後、桓武天皇の子である安殿(あて)親王が病に倒れます。占わせると、早良親王の怨霊が祟っているのだ、という結果が出ました。この祟りを恐れて長岡京を離れたのだとするのが怨霊説です。

また、自然災害説では洪水が強調されます。
安殿親王の病の直後と二ヶ月後、二回に渡って大雨が襲い、小畑川と桂川(葛野川)が氾濫し、大きな被害が発生しました。洪水の後には疫病発生がつきものです。あふれた泥土に含まれる細菌類が、生活区域や飲用水を汚染するのです。これが遷都の決定的要因になったというのです。

たしかに次の平安京でも、洪水と、それに伴う疫病はたびたび発生しました。
しかし、平安京の鴨川に比べて、長岡京を取り巻く淀川水系と巨椋池では、洪水の規模がかなり違うという点が指摘されています。

「鴨川の流域面積は約208 km2で中小河川である。このため氾濫があっても、その被害はそれ程ではない。(中略)長岡京では巨椋池が氾濫し、その水が襲ってくるならば、洪水の脅威は平城京、平安京との比ではない。平安京はたとえ鴨川が氾濫しても、扇状地であるため水は容易に引く。一方、長岡京の低地部ではその地形条件より水の引くのが遅く、このため伝染病などが発生してその被害は深刻となる。古代の技術で防禦するのは、到底不可能なことと判断される」
(「古代の官都の移転と河川」松浦茂樹)

長岡京が選ばれた一番の理由は、河川交通を活用できることでしたが、川が集まるという便利な地形は、治水の難しさと表裏一体でした。

上記のような事態を受けて、長岡京から平安京へ都が移っていくのです。

現代の小畑川。画面奥は愛宕山

現代の小畑川。画面奥は愛宕山

しかし、奈良・平城京に都を還すのではなく、さらに別の土地を模索したのは、
・河川交通の要衝に都を置く
・高所に宮殿を配して威厳を高める
という理念をどうにかして実現したい、という意志の現れではないでしょうか。

未完には終わりましたが、桓武天皇を惹きつけた長岡(向日)丘陵は今も残り、大極殿、内裏の一部が整備され、記念碑や案内板が立てられています。
宅地化されるなどして、わかりにくくなっていますが、道を歩けば、坂になっていることは感じられます。

現代の大極殿公園。約200m東には内裏公園も造られている

現代の大極殿公園。約200m東には内裏公園も造られている

ところで、長岡京設置の第一の要因ともなった山崎津ですが、平安京からみると、やや不便なことになりました。
長岡京は山崎津と直接つながっています。
しかし、平安京はつながっていません。
山崎津で下ろした荷物は、もういちど川を渡らないと平安京に入れないのです。

のちに、鳥羽や伏見などに港が整備されていくのは、これを解消するためだと思われます。

参考文献
桓武と激動の長岡京時代 国立民族博物館編 山川出版社
京都を学ぶ(洛西編) 京都学研究会編 ナカニシヤ出版
京都おとくに歴史を歩く かもがわ出版
古代の都 なぜ都は動いたのか 吉村武彦、吉川真司、川尻秋生 岩波書店
長岡京市の史跡を訪ねて NPO法人 長岡京市ふるさとガイドの会
古代の官都の移転と河川 松浦茂樹 J-Stage
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この記事を書いたKLKライター

写真家
三宅 徹

 
写真家。
京都の風景と祭事を中心に、その伝統と文化を捉えるべく撮影している。
やすらい祭の学区に生まれ、葵祭の学区に育つ。
いちど京都を出たことで地元の魅力に目覚め、友人に各地の名所やそれにまつわる歴史、逸話を紹介しているうち、必要にかられて写真の撮影を始める。
SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

主な実績
京都観光Navi(京都市観光協会公式HP) 「京都四大行事」コーナー ほか
しかけにときめく「京都名庭園」(著者 烏賀陽百合 誠文堂新光社)
しかけに感動する「京都名庭園」(同上)
いちどは行ってみたい京都「絶景庭園」(著者 烏賀陽百合 光文社知恵の森文庫)
阪急電鉄 車内紙「TOKK」2018年11月15日号 表紙 他
京都の中のドイツ 青地伯水編 春風社
ほか、雑誌、書籍、ホームページへの写真提供多数。

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