令和3年(2021)10月24日(日)京都市右京区京北下中町の「あうる京北」(府立ゼミナールハウス)に於いて、中井 均滋賀県立大学名誉教授を招いて周山城址の講演が開かれた。
中井氏は、まだ地元でしか知られていなかった40年前から周山城址を踏査し、独自の「縄張図」を発表されるなど「周山城址研究の先駆者」である。織豊期城郭研究の大家に「周山城跡」を熱く語って頂きました。100名程の受講者は真剣に耳を傾け聞き入っておられた。
その様子を中井氏の了解の下、紹介する。

 

【 中井 均さんの講演 】 要旨

はじめに

本日は、このようにたくさんの方の中で、お話をさせていただくことに感謝する。
私は、中世期の城郭研究に関わる中で、様々な地域でその保全活動にも接してきた経験から、「周山城址を守る会」から講演依頼を受けた時、周山城址の保全には地元の方々の理解と取組が必要であることをお話しし、そのお手伝いとの一つとして私が講演させていただくならという思いで本日寄せていただいた。
多くの地元の方々に話を聴いてほしいということもお願いし、このコロナ禍の中で制約もあろうが、本日の参加者は60%以上の方々が旧京北・美山町の方とお聞きし、参加者が地域で誇れる歴史資産(遺産としてとらえるのではなく残された遺構を現在に活用するということ)として認識を新たにしていただくとともに、今後の周山城址の保全活動にご支援・ご協力いただく気持ちになっていただけるようお話をさせていただきたい。

依頼を受けた当初は、午後からの講演ということであったが、今回のイベントは午前中の有志による登城会も組まれているとお聞きし、それならということで午前9時からの登城会にも飛び入り参加させていただき、非常に懐かしく、また私が踏査し始めた当時とほとんど変わっていない遺構の勇壮さに改めて感動し、その素晴らしさを実感した。
最初にお断りしておかねばならないが、私の研究領域は中世期の城郭研究ということであり、その重きをなす戦国期・織豊期には、ともすれば城を築いた武将に興味がいく方もおられると思うが、私は城への強い思いはあるものの武将には全く興味を持っていないので、了解をしておいてほしい。

まず城とは何か、昭和初期に城郭研究の基礎をつくられた鳥羽正雄先生、大類伸先生が整理されているように「軍事的防御施設」である。
日本では第二次世界大戦後、軍事研究への回避論が強くあった中で、軍事的施設という城の学術的研究は長く忌避されていたため、戦後の「城」に対する調査や研究はもっぱら在野の研究者において行われ、その成果が蓄積されてきたが、京都府が公表した城分布調査では約1千にも上る城址が確認されている。
日本国内では、南北朝期から江戸初期を大築城時代(古墳時代、奈良・平安時代と呼ぶのと同様に)と言い、300年ほどの期間で3~4万個という異常な程の城が築かれており、その規模は、一片を50m程度とするものが大半で、今で言う少し大きな人家と変わらないものであり、ステイタスとしてつくったと思われる。
私は、20代後半の1980年代前半に福知山商業高校におられた藤井善布先生から、「周山にすごい石垣の城がある」という話を聞かせてもらい、戦国時代に石垣の城があるのかいなという半信半疑の思いで、当時は京都駅から1時間30分をバスで揺られながら訪れたが、想像を遙かに超えるすごいとしか言い様のない城址の姿に圧倒された。
それから時間をつくっては、周山に足を運んで城址のある黒尾山をくまなく歩き、そこここで見つかる石垣や遺稿の痕跡を歩測でつないで全体像を推量する作業に没頭したことを覚えている。
そのころ私は、中世城郭研究グループに参画しており、もっぱら周山城担当として、全く未踏であった周山城の調査結果を1987年に初めて同グループが編纂・発行した中世城郭事典という刊行物に「周山城主要部縄張り図(城の見取り図」として発表した。その後、多くの方が調査に入られ、様々な縄張り図が公表されているが、私が調査に着手した当時はだれの手もついていないまさに白紙の状態であって、こつこつ調査を積み重ねたことで最初の縄張図が出来たところであった。

最近では、京都市が赤外線調査による図面を公表されたが、これは我々が火縄銃で戦っていたものを最新科学兵器に置き換えて戦争をしているようなもので、その精緻さは格段に進歩し、今後も益々高いレベルでの調査や考察が進むものと期待している。

 

周山城とはどんな城か

多くの方々の意識では、お城というと天守閣があるもの、石垣程度は城跡、土盛りのものは城とは言えないという思いであろうが、ここ30年余の調査・研究の中で明らかになったことは、信長時代以降に初めて天守や石垣が備えられた城が形成されたこと、それ以前はほとんどが土盛りの城、石垣による城は存在しなかったということである。
地元の方々は「周山城址には天守もなく石垣だけが残っているだけでたいしたものではない」という思いを持ってこられただろうが、実は城郭史を紐解くとまさに全国的にもトップクラスのすごいものが残っていたということになる。
姫路城や彦根城などは1600年以降のものであり、周山城址は、石垣だけしか残っていないのではなく、石垣がこれだけの規模でそのまま残っていることは、まさに例を見ないものと評価できる。

周山城は天正7年(1579年)築城とみられるが、同じく築城の妙手と言われた明智光秀が築いた坂本城は琵琶湖中にその石垣の一部を残すのみ、福知山城、黒井城、亀山城はいずれも限定的に残された石垣等を近世以降に大規模に再生したものだが、周山城は唯一、築城時の形を残す確率の高い城として残存しており、奇跡といっても過言ではない。
確かに崩されているところも多いが、これは自然風化によるものではなく、本能寺の変等の後、人為的に崩されたものであり、それでも城を形作る多くの石垣等がこれだけ残っていることは大変高い評価を得られるもので、信長・光秀の時代の城の発展の中心に周山城はあると言える。
周山城に関わる記録は非常に少ないが、その中でも、堺の著名な茶人・津田宗久が天正9年(1581年)8月の十五夜の日に、光秀を訪ね、周山城で一晩中茶会を催したという記録(津田宗及茶湯日記)が残されている。天正7年に築城し、その2年後にはこのような催しができる城となっていたのである。

では、周山城は何故この地に築城されたのか。それは若狭と京都を結ぶ周山街道(西の鯖街道)の要衝の地にあり、城東から周山の町と街道が眼下に一目できたことでもわかる
光秀は丹波平定後、天正7年頃から亀山城を支配の拠点として、黒井城を西丹波、福知山城を中丹波、周山城を東丹波の、それぞれ支城として築き、支配後の反乱を盤石に抑えるための本・支城体制を確立していったことは大いに注目すべき点である。
城の戦闘員たる配下の居住施設は存在したのかというのも大きな疑問であるが、現在残る曲輪を見る限りでは、細長い形状となっており、築城した山(黒尾山)の尾根幅が狭いことも考え合わせると、日常は城下又は他の城に住まいし、戦争時には周山城に駆け付けたのではないか。朝倉義景の一乗谷も、多くの方が見学される居住区に隣接して山城が作られていた。いずれにしてもその事実は、今後の調査の中で明らかになるだろう。

 

周山城・石垣の特徴

周山城の特徴的な構造について見てみると、

①現在の登り口(大手門と表示されているところ)からもう少し登ったところに両側を石垣で囲った通路(城門・虎口)が配されている。
②天守に向かうための通路の両側には人工的に築かれた防御壁(登り石垣と言われるもの)の崩落跡が見られるが、この時期の城郭では全く見られなかったもので、その後、豊臣秀吉が朝鮮出兵した際に現地で作った倭城に多く見られ、その先鞭としての構造物と位置づけられる。なおこの崩落は、自然のものではなく破城のためとみられる
③天守台の一画にはクレーターがあるが、石垣で取り囲んだ四角形の貯水池と見られ、大和高取城や宇陀松山城でも見られる。
④天守台を囲むように多くの曲輪(くるわ:出城)と見込まれる人工的な平場が配置されているが、これらは、天守を守る出城であるとともに、武具や食料を置くところであろう。
⑤天守台を支えるように大きな石垣が階段状に残されている。豊臣・徳川時代の石垣は算木積(両手を組み合わせたような形状で石の方向を交互に重ねる方法)となるが、周山城ではその時代に至るまでの過渡的な工法として、2段階に積み上げ、そのつなぎ目に踊り場を置く「段組み」という工法で7m以上にも及ぶ石垣を築いていたものと思われる。石垣の城は安土城を最初に、秀吉の大阪城に続く系譜と言われているが、過渡期に築城された石垣として他に例を見ない規模と形状を周山城は残している。
⑥天守台の西側に残る石垣では、5m以上の一面の出角(城の角)がはっきりと残っている。
⑦天守台には一段高く石積みされた3箇所の空間が形作られている。これは地下室から天守へとつながる出入口と考えられ、他に類を見ない独創的な城の形状である。

京都市の赤外線調査による縄張図でも明らかなように周山城は、東に石垣を張り巡らせた天守と東西南北に広がる尾根筋を切り開いただけの土盛りの曲輪を配し、その西方の堀切を超えていくと土盛りによる拠点的な城が存在しているが、全景からすると石の城と土の城が混在・共存した形となっている。丹波平定後の間もない時期に急いで築城する必要性から、地形的な用件や時間的制約を踏まえて、できる手法として石の城と土の城を同居させたのではないか、光秀が制圧し再整備した兵庫黒井城や秀吉の朝鮮出兵による倭城築城でも見られるが、丹波平定後の軍事的緊張下で一刻も早く防御を整えるとともに権力者としての立場を誇示するためと思われる。

石材はどこから調達されたのか、城下や遠方からなら大変な労力と思われるが、多くは黒尾山の尾根を削って曲輪を造成した際に出た石(チヤート)を利用し、整形などの特別な加工はせずにそのまま積み上げた「野面積み」となっており、自然石ゆえの隙間が多く見られる。しばらく後の石垣では小石(間詰石)を隙間に詰めて補強する方法がとられているが、周山城では自然石をそのまま垂直に積み上げており、強度や構成上、極端な高さを確保できず、天守台を囲む二段積みとなっている。また、すべてを石垣で囲むのではなく、一部では石塁の上に土塀・木塀を用いていたことも特徴的なものである。
天守台では、瓦片が見つかっているが、織田信長の安土城以降は土の城から石の城に転換していく時期であり、強固な地盤の上に建物を配し、天守を設け、瓦葺きという構造が見られる。城を石垣で囲い、天守がそびえるという形は、軍事上ではなく、専ら権威を誇示するためであり、天守を覆うための瓦も用いられたのだろう。
瓦の作り方によって時期は特定されるが、最初は糸引き、その後は鉄線引きとされ、鉄線引きは1583年以降とされているが、周山城の瓦片の切断面は鉄線引きのものもある。光秀が築城した時代とは異なり、豊臣時代の為政者が再興した際のものと見られる。

周山城は、大規模な石垣、瓦の出土、独創的な天守台など、数々の遺構だけでも非常に高い評価を得ているが、中世・織豊期の城郭研究においても非常に注目すべき位置づけにある。周山城は、石垣や瓦、天守など後世につながる形式を取り入れ、信長の安土城(天正4年:1576年築城)から豊臣秀吉の大阪城(天正11年・1583年築城)に至る築城の系譜の中で、いずれに劣らず豪壮な城として築城されたものと言える。歴史を経る中で、山城から平城に、個性を様々に反映したものから定型化した形へ、試行錯誤しながら移行する過程を濃く残しており、そういった意味でも城郭研究の大変貴重な歴史資料と評価できる。

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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