では周山城は、天正10年(1582年)の本能寺の変の後、山崎の合戦において光秀が滅ぼされた時に同じくして廃城となったのか、そしてそのまま400年の時を経て今に残っているのか。京都吉田神社の神職であった「吉田兼見の日記:兼見卿記」に天正12年(1584年)2月に豊臣秀吉が周山城を視察したという記述が残されており、少なくとも光秀滅亡後も2年間は秀吉の部下によって維持されていたと考えられ、確かに山崎の合戦後、坂本城が焼かれていることや出土瓦が鉄引きのものも見られることから、光秀配下が破城して逃走したかもしれないが、その後も要衝の地を納める城として一部を修築して使っていたとはいえる。但し、秀吉治世の中で丹波の拠点は亀山城により集約化されており、周山城はその後、歴史上のあらゆる記述がなく、遠くない時期に石垣を崩すなどして廃城したのだろうが、城の多くは光秀が築いたままの形状を色濃く残して現在に至ると思われ、破城後にもこれだけの見事な石垣や城の形状を残す周山城は、注目の高い「但馬竹田城址」を凌駕する歴史研究の価値を持っていると考えている。


 

保全に向けて

周山城址は、歴史から忘れられたまま長く経過してきたことや多くの地権者が存在することもあり、今まで本格的な調査に至ってこなかったが、先の京都市赤外線調査図面からもわかるように、より詳細な調査や現地での発掘などが行われるならば、様々な驚きと歴史評価の事実が明らかとなり、日本の城郭史上、「地域の誇る歴史資産」として国内一級品のものとなるのではないか。様々な課題や乗り越えなければならない壁もあろうが、地元の方々の熱意と保全に向けたたゆまぬ取組により、一日も早く「国指定史跡」となって、名実ともに評価・保全・活用されていくことを念願する。

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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