真夏に雪を降らせた天皇、それを丼の名前にした都人 〜「衣笠丼」に隠された物語〜

京都のローカルフード「衣笠丼」の「衣笠」って何?

京都の古いうどん店なら、必ずといっていいほど見かける「衣笠丼」。刻んだ油揚げを甘く辛く炊き、それを葉ネギとともに出汁でさっと煮て溶き卵でとじたものをご飯の上にのせた丼物で、噛むほどに油揚げの甘みやコクが広がり、まろやかな玉子の味わいとともにご飯がすすむ京都人にはお馴染みの品書だ。ところが御多分にもれず名前がわかりづらい。衣に笠…? 名前だけではいったいどんな料理が出てくるのかさっぱりわからない。

そもそも「きつね」や「たぬき」も変わった名で、さらに「しっぽく」や「のっぺい」といったローカルで奇妙な?名前も並ぶと馴染みのない者からすれば暗号にしか見えないのだが、中でも京都が発祥と言われる「衣笠」が何故「衣笠」なのか、その理由が気になった。実は京都市内の北、金閣寺と龍安寺にはさまれるように衣笠山という標高201mほどの小山がある。どうやらこの山が「衣笠丼」の由来らしいが、では何故その山が衣笠山と呼ばれるようになり、やがて丼の名称となったのか。その不思議を紐解いていきたい。

衣笠山で繰り広げられた壮大なプロジェクト

衣笠山の名前の起こりは平安初期に遡る。当時、世を治めていた宇多天皇がある日、雪景色が見たいとのたまったという。季節は真夏、現在の8月ごろだろうか。茹だるような暑さに包まれる盛夏只中に雪を降らせよという“無茶振り”に配下の者たちが動揺したのは言うまでもないが、そこは天皇の所望、勅命に等しい。「ならば白い絹布をかけて雪に見立ててはどうか」「なるほどそれは名案じゃ!」…そんなやりとりがあったかは定かではないが、かくして真夏に雪を降らせる一大プロジェクトが始動する。

当時の平安宮(大内裏)は現在の京都御苑よりもっと西、千本丸太町の交差点付近に位置していた。そこから見える山で布がかけられそうな山…、そんな条件をクリアーしたのが衣笠山であった。朝廷内からありったけの白絹が集められ、木登りが得意な人足も集められたであろう。絹布も人も総出で緑生い茂る夏山に入り、木に登ってかけていった。宮中からは、「雪のようにふわりとかけよ」「ああ風に飛ばされた」と細かい指示が出され、そのたびごとに現場に伝達され…。想像するだけで汗をかきそうなやりとりである。

こうして衣(きぬ)を笠にした「衣笠山」が完成する。ちなみに同山は「きぬかけ山」ともいい、側道は今も「きぬかけの道」と呼ばれている。
しかしここで一つ疑問が浮かび上がる。そもそも絹を山などにかけず、宮中の庭木にかけて雪景色を再現したほうがよっぽど楽だったのではないか。何故わざわざ山に…?? それは宇多天皇と、それをとりまく環境にヒントがある。


“真夏の雪”に秘められた宇多天皇の思い

887年(仁和3年)、第59代天皇として宇多天皇が即位した。21歳のときのことだった。父に光孝天皇、曽祖父に桓武天皇という嫡流ながら当時すでに実権を握っていた藤原家の影響で即位直後からトラブルが続く。しかし若き天皇は藤原家から縁遠い菅原道真を大臣に抜擢するなど、画期的な政務を行い藤原家に対抗したという。信念をもって大きな力に負けまいとする人を見るとつい応援したくなるのが人の心理というもの。京の人々は応援にも似た気持ちで宇多天皇を見守っていたのではないだろかろうか。

宇多天皇は仁和寺を完成させたことでも有名で、譲位後は出家し仁和寺を住まいとしたと伝わる。また、たびたび歌合を催し、歌人輩出の契機をつくるなど、政のみならず歌や仏の道など多方面に秀でた聡明なお方であったようだ。そうした背景をみると、今回の衣笠山の件で一つの仮説が思い浮かんだ。宇多天皇は真夏に雪を降らせることで自身の権力を誇示したかったのではないか…。

一見すると戯事のようなことではあるが真夏に雪というまさに神業のようなことをやってのけ、台頭する藤原家に見せつけることが目的だとすれば、どこからでも見える衣笠山が選ばれたことも合点がいく。あるいは宮中のみならず洛中にも見えるようにし、民にもなんらかのメッセージを届けたかったのではないか。しかし、もしそうだったとしたら宇多天皇をとりまく環境とはいかなるものだったのか。そうまでして守らねばならぬものは何だったのか。危ういお立場での生き辛さが思われ、譲位後、仏道に邁進されたのもさもありなんと思う。

一方、そんな強烈なメッセージを受け取った当時の都人たちは何を思ったであろう。「ご乱心あそばされたか」と噂したか。いや「面白い!」あるいは「一抹の涼」と喜んだ人もいたかもしれない。現代であればおおいにSNSが荒れる案件だが、当時の民はポジティブに捉えたのではないか。無茶振りだけれどどこか憎めない天皇さん、そんな思いが人々の心に残ったからこそ山名のみならず丼の名前として伝わっているのだと考える。

余談になるが、毎年10月に京都で行われている「時代祭」で、長年、室町時代列がなかったことをご存知だろうか。時代祭は1895年(明治28年)より始められた平安神宮創建を祝う祭礼で、明治期から平安期までに活躍した人物などが当時の衣装を纏い行列をなして市中を練り歩く京都三代祭の一つである。その時代行列でなぜ室町時代が除外されていたのか、それは京の人々が後醍醐天皇を追放した足利尊氏を忌み嫌っていたからだという。その後室町時代列が設けられるのは時代祭が始まって112年後の2007年のこと。室町期から650年以上の月日が流れているにもかかわらず京都人の怒り、根付いた評判は消えないのだと思うと背筋が凍る思いだが、その一方で天皇を恐れ敬い、心寄せる京都人の精神は幾世たとうとも普遍であることがわかる。それは宇多天皇と衣笠山の一件も同じ。絹がかけられた山を見て人々が嫌悪したのであれば、山や道、丼の名前ではない、もっと別の形で私たちの時代に伝えられたのでは、とも思う。

ネーミングに込められた愛と皮肉

ここでもう一度、「衣笠丼」を思い出して欲しい。刻んだ油揚げと葉ネギに溶き卵をかけ、玉子とじにしている。おそらく玉子が白絹、葉ネギや油揚げは山の木々ということなのだろう。「衣笠丼」の発祥については諸説あるが、衣笠山から程近い西陣エリアで織物業を営む職人たちが仕事の合間に食べるファストフードとして定着していったという説がある。「きぬ」という言葉も染織業と結び付くため、この説が有力ではないかと思う。職人が食事時間もままならぬほど多忙であったとすれば、発祥時期は終戦の1945年(昭和20年)から西陣織が全盛を迎える1980年(昭和55年)の間だろうか。

しかし、平安初期の天皇の企み(戯れ?)を商品名にするとは何ともハイセンス。センセーショナルな出来事を逆手に商品を売ろうとするしたたかさと天皇への敬愛、そして皮肉がにじんで見えるのは私だけだろうか。「きぬがさ」という響きも趣があってしっくりくる。何より由来となった故事が壮大でいかにも京都らしい。前代未聞の大仕事を遂げた先人たちにあやかって、“山のように絹布をつくる”という縁起も込めたのかもしれない。想像は膨らむばかり。

今後もし京都の古いうどん店の暖簾をくぐることがあれば、ぜひ衣笠丼を食べ、思いを馳せてみて欲しい。宇多天皇の無茶振りを、それに右往左往した宮中と協力した町衆の心意気を。そして白絹がかけられた山を見た若き天皇は何を思い、どんな言葉を発したのか。油揚げと葉ネギと玉子の素朴な丼が1150年前の京都へと誘ってくれるだろう。


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この記事を書いたライター

東京都生まれ、京都在住のライター・企画編集者。京都精華大学人文学部卒業後、東京の出版社に漫画編集者等で勤務。29歳で再び京都へ戻り、編集プロダクション勤務を経てフリーランスに。紙媒体、Web、アプリ、SNS運用など幅広く手掛ける。

|編集者|衣笠丼/由来/真夏に雪/どんぶり/丼