愛Love室町幕府 -義輝・義昭兄弟の室町幕府再興への願い-

パパっと分かる室町幕府の創設と室町文化

後醍醐天皇の討幕計画が引き金となって、鎌倉幕府は滅亡する。その後、建武の新政が始まるが短期間で崩壊し、足利尊氏は征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開いた。3代将軍足利義満が京都の室町に「花の御所」を建てて幕府を移した。これが「室町幕府」という呼称の由来である。

 室町幕府は、中国との国交を復活し、朝鮮とも国交を結び、東アジアとの交易を展開し、相互に影響を与えた。

 3代将軍足利義満の時代には、公家文化・中国文化・武家文化が融合した北山文化が生まれた。鹿苑寺金閣はこの時代の特徴を現している。民間芸能の能や狂言の芸術性が高められた。

8代将軍足利義政の時代には、東山文化が発展し、日本の伝統文化が形づくられた。慈照寺銀閣は書院造を代表する建物である。茶の湯や生け花、枯山水庭園などの発達もみられた。

この原稿を書いているのは、10月半ばで、丁度NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が放映されているのは、13代足利義輝から15代足利義昭にバトンタッチされた頃の話しである。

兄・13代足利義輝と弟・15代足利義昭の兄弟は、室町幕府の栄光を取り戻そうと天下を治める力を失っていた幕府の再興を願って戦国武将と渡り合った。義輝は、剣豪将軍として名をはせ、巧みな外交力で有力大名を味方につけていった。最期は三好衆により30歳の若さで非業の死を遂げた。

弟・義昭は、僧侶から一転兄の意志を継ぎ将軍の座に就いた。武田信玄、上杉謙信、織田信長、朝倉義景、毛利輝元、松永久秀など戦国武将や本願寺などに翻弄された。信長に支えられて将軍となった義昭だが、1573年(元亀4年)頃から信長との関係が悪化した。信長は義昭を京から追放して、室町幕府は滅亡した。そして、義昭は61歳まで長生きをした。
義輝、義昭兄弟の人生を顧みると、室町幕府再興を願った兄弟愛を感じざるを得ない。

都に残されたあまり知られていない室町幕府の痕跡を巡ってみた。二人に愛とLoveを込めて・・・

狩野永徳が描き、織田信長が上杉謙信に送ったと伝わる。2双6曲の屏風絵で室町幕府の「花の御所」が描かれている。


等持院

足利尊氏が夢想礎石を開山として衣笠山南山麓に創建した足利氏の菩提寺である。霊光殿には、歴代足利将軍の木像13体が安置されている。1863年(文久3年)三条梟首事件 等持院にあった足利将軍三代の首を斬り、これを三条河原にさらした事件である。

1568年(永禄11年)室町幕府最後の将軍に就いた。初めは織田信長を頼って将軍に就いた。後に不和となり、反信長勢の中心として対立したが、1573年(天正元年)


本国寺(本圀寺)

堀川五条北西跡 現在、1971年(昭和46年)山科区に移築されている。残された塔頭や墓地から広大な寺領を擁していた事がうかがわれる。寺は堀で囲まれ、臨時の城郭寺院として多くの武将の陣地とされていた。
江戸時代、日本が朝鮮国から招いた「朝鮮通信使」は京都で滞在した。七回にわたり一行
約400名の宿館として用いられた。
一時足利義昭の邸宅とされたが、三好勢に攻められ、信長が二条御所を急遽築城する。

本圀寺跡に建つ石碑と説明版

足利13代将軍義輝公(1547~1565)の執権三好長慶の執権であった松永弾正久秀の屋敷跡であった。

妙恵会墓地

旧二条城

応仁の乱で凋落していた足利将軍家だが、安土桃山時代に入っても存在していた。
中でも13代将軍の足利義輝は室町幕府の拠点を斯波氏の館であった武衛陣に移し、合戦の調停を頻繁に行うなどして将軍家の威光を一時的に回復させた。
しかし、永禄の変で敵対する三好三人衆などに暗殺され壮絶な最期を遂げる事になる。

武衛陣と足利義輝邸遺址
平安女学院西側

1569年(永禄12年)織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭のために、足利義輝の二条御所武衛陣跡を拡張し造営した。
しかし、信長は義昭を追放し、1576年(天正4年)旧二条城を取り壊した。
建物などは安土城築城の建築資材として使用された。

旧二条城跡 足利義昭の二条御所
平安女学院大学北東角

旧二条城の石造物群

旧二条城の堀に使われていた石垣が地下鉄烏丸線の発掘調査で発見された。石垣の石材には石仏や礎石なども用いられていた。

京都御苑内、西南の椹木口あたりに移築された復元石垣。 地下鉄烏丸線の工事に伴う発掘調査で丸太町上ルに埋もれていた石垣である。
洛西ニュータウンはまわり一帯が古くから京たけのこの産地であった。その歴史を後世に残すため、竹林公園が昭和56年に開園された。埋もれていた石仏など約350体が安置されている。
現二条城本丸西側に移築保存されている石垣。上下二段構造で、犬走りが見られる。

旧秀鱗寺庭園(朽木谷 興聖寺)

滋賀県朽木村
室町幕府第13代将軍義輝が戦乱の続く京から逃れ3年余り滞在した秀鱗寺庭園跡

花の御所(室町殿)

同志社大学今出川校地の烏丸通を挟んで向かい側の門跡尼寺である「大聖寺」境内に建つ石碑。 庭内に四季折々の花木を配置したので、「花の御所」と呼ばれた。
今出川室町通り角に建つ石碑
同志社大学寒梅館の建設に伴う発掘調査(2002年)で、発見された石敷。ガラス越に保存されている。

番 外 編

室町幕府とは直接関係がないが、信長時代の「二条御新造」、「妙覚寺城」および秀吉時代の「妙顕寺城」についても紹介をしておく。

二条御新造

京都国際マンガミュージアム跡に建つ石碑。

1577年(天正5年)、織田信長が二条良基の邸宅を、京都の拠点として整備した。
1579年(天正7年)正親町天皇の皇太子誠仁親王に献上し、二条殿・二条御所と呼ばれた。
1582年(天正10年)「本能寺の変」で信長の長男信忠がここで自刃し、二条殿は焼失した。

妙覚寺城

1582年(天正10年)の本能寺の変の際、織田信長の嫡男信忠が宿舎としていた。明智光秀の謀反を知った信忠は寺を出て、明智勢を討つべく東隣の二条殿へ向かうが、果たせずに自害する。
信長は二十数回京に滞在しているが十八回宿所とし、本能寺は三回しか滞在していない。
現在、上京区上御霊前通小川東入ルに移転されている。
大門は聚楽第の裏門を移築したと伝わる。

 

妙顕寺城

二条城東側の古城町に石碑が残る。1583年(天正11年)に本拠地を大坂に定めた秀吉が京都における拠点として築いた城である。
聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われた。周囲には堀をめぐらし、天主をあげていたという。

1200年を超える長い歴史がある京都には様々な事があり、その延長線上に安心と安全な京都の今がある。

大昔、海水の下であった地が、盛り上がり京都盆地ができあがった。日本風の文化が花ひらいた平安時代、新しい仏教が興った鎌倉時代、金閣・銀閣を生んだ室町時代、天下統一をめざした安土桃山時代、京・江戸・大阪三都にぎわう江戸時代、京を舞台に幕末維新の動乱時代、京に活気と近代化の波が訪れた明治時代と様々な歴史上おこった事が頭を蘇る。
 
 室町幕府は約240年続いたといわれるが、実際には山あり谷ありの幕府であった。13代足利義輝から15代足利義昭の27年間は特に激動動乱の時であり、混迷した末期であったと考えられる。もしもこの間に武田信玄や上杉謙信が無事上洛し、将軍に忠誠を誓い、力を貸したのなら都も変わったのかも知れない。

 兄・13代足利義輝と弟・15代足利義昭の兄弟は、室町幕府の栄光を取り戻そうと奔走したが、その努力も実を結ばなかった。しかし、その兄弟愛があったからこそ京都の今があるのではないかと思っている。

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この記事を書いたライター

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

|自称まちの歴史愛好家|北野天満宮/今宮神社/千本通/明智光秀/怖い話