「引退したら京都に住みたい」という人は時々いらっしゃいます。
実行に移されることもあるでしょう。
江戸時代にも、そんな人がいました。
彼は、徳川家康に仕えた武士でしたが、学問の道に進みたいと思い、念願かなって洛北に隠居所を作りました。その建物と庭園は余りに美しいので、今では観光に来る人たちにも愛されています。
京都に住むだけでなく、自分の足跡を残せるなんて。
詩仙堂を作った石川丈山の人生
詩仙堂。丈山寺(じょうざんじ)ともいいます。
石川丈山という人物が、造りました。
丈山、本名は重之(しげゆき)。
三河国、今の愛知県安城市の出身で、身長190cm(6尺6寸)。剛毅な武士だったそうです。
本能寺の変の翌年に生まれていますので、戦国武士としてはかなり終盤の人です。
石川家は、徳川の家臣団の中でも特に歴史のある、譜代と呼ばれる武士。丈山の親戚には、徳川家の家老になった人、大名や旗本になった人など、有力な人物が数多く居ます。
しかも、母親も、本多正信の一族。正信は徳川家康の知恵袋だった、戦国好きにはかなり知られている頭脳派の武将です。
丈山は、父も母も徳川家の譜代という、生え抜きの家柄なのです。
彼は、大坂夏の陣で、先陣を切りましたが、これが抜け駆けの軍令違反に当たるということで咎められ、徳川家を退出。髪を剃って妙心寺に入ってしまいました。
このときには、既に、学問や詩作に魅入られていたようです。
彼は、もう、武士などやりたくなかったのですが、老いた母親を養うために、やむを得ず働く必要が生じ、大名 浅野家に仕えて和歌山~広島に住みました。
彼の学問好きは、半端なものではなく、当時一流の儒学者 藤原惺窩に弟子入りするほど。本当は、そちらに専念したかったのです。
我慢の勤め人生活を過ごすこと、13年。
母が亡くなり、肩の荷が下りると、浅野家の制止があったにも関わらず、振り切って京都へ移り住みます。
念願かなって京都へ移住
このとき54歳。
「念願の隠居生活を始めるぞ」と言ったところでしょうか。
この時の喜びを一篇の漢詩に込めています。
2箇所だけ、抜粋します。
「官を棄てて 野趣に甘んじ(仕事なんて棄てて、自由の身だ!)」
「志をほしいままにして 身を終えんと欲す(思うままに生きて、生涯を終えたいんだ!)」
しがらみを放り去って、好きなことに没頭する。
最高ですね。
そして彼は、これから90歳までの、長い長い、隠居生活を続けるのです。
5年間、現在の上京区で暮らした後、59歳の時、洛北の山沿い、一乗寺に移りました。
ここに、凹凸窠という隠居所を構えます。
読めますか?
おうとつか、と言います。
デコボコした土地に立てた家、という意味です。教養に溢れ、漢文が好きな丈山、あちこちに付ける名前は、漢文調なんですね。
敷地内をご案内
さて、入口「小有洞」をくぐると、このような敷石の道が。
詩仙堂は、もともとは住居です。
それを曹洞宗の禅寺に改めて、今に至ります。
とくに、この額縁のような眺めは有名で、ガイド本などでも、よく見る構図です。
じつは、お庭は上・中・下の三段に分かれています。しかし、詩仙堂の立つ上段からは、中・下段の庭が見えません。
大きなサツキの刈り込みがあって、庭を彩るとともに、より下の段を隠しています。
視界を狭めることで、かえって広がりを演出していると思います。
階段を降りていくと、広々とした庭園になっています。
四季の花が咲く、小さな池、百花塢(ひゃっかのう)のお庭。
お庭の隅には、鹿威し(ししおどし:僧都とも呼ぶ)という有名な仕掛けがあります。
水の流れを利用して、竹筒を動かしており、一定時間になると音が響きます。
また、詩仙堂の名前の元になった詩仙の間には、三十六詩仙の絵が飾られています(内部撮影禁)。
これを書いたのは狩野探幽(及び尚信)。徳川将軍家の御用絵師で、狩野派の最高峰をなす画家です。
中国の漢~宋時代の詩人たちから、丈山と、林羅山が相談して、三十六人を選び出したそうです。
それも詩作の腕前だけでなく、人間性も考慮し、たとえ上手な詩人であっても、丈山から見て納得の行かない経歴であれば、落選させたとか。
石川丈山が、この詩人たちに、相当の思い入れを持っていたことが伺えます。
思うに、丈山も、この詩人たちの生き様を真似たい、三十七人目の詩仙として生きたい、そのくらいの気持ちだったのではないでしょうか。
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この詩仙の間の上に、楼閣があります。
詩仙堂の土地の中ではもっとも高い場所を占めています。
いわゆる展望台である、と考えてください。
この楼閣、嘯月楼、庭園だけでなく、京都市内も見渡せるといいます。(一般立ち入り禁)
じつは、妙な説があるのです。
石川丈山は、表向きは引退の身であるが、実は徳川家から援助を受け、ある役目に就いていたのだと。
それは、都の東、この楼閣から、京都御所、つまり朝廷や公家の動向を見張る、という役目であると。
そうでなければ、いち浪人の身で、こんな広壮な邸宅を建て、維持できるものではない。その費えはどこから来たというのか、徳川に違いない…というわけです。
明治の著述家 宮武外骨などが唱えたあたりが始まりだそうです。
いわゆる俗説ですね。
なんにしても、丈山が、どのようにして生計を立てていたのか。後世の人が訝しむほど、彼の余生は長く、充実していたのですが、たしかに、不思議なのです。
ここからは、丈山はどうやって暮らしていたか考え、それが上記の説の反論につながれば、と思います。
丈山の生計は、どうなっていた?
丈山の生計は、どうなっていたのか。3つの点から考えます。
1)武士時代の蓄えがあった
2)学問などを人に教え、あるいは詩・書を作ることで謝礼や協力を得ていた
3)援助してくれる先があった
1)武士時代の蓄えがあった
まず、1) について。
繰り返しになりますが、丈山は古くから徳川(松平)の家臣であった譜代の武士です。
彼のような人が、別の大名家に仕官した場合、厚遇されることがあったのです。
本多政重という、同時代の人が居ます。
丈山とは遠縁の親戚(本多正信の息子)で、やはり、徳川譜代の生まれですが、他の大名の下で働き、最後には前田家に仕えました。
徳川家に顔が利くこともあり、前田~徳川の間でなにか起こると、交渉事を担当するなどして功績を上げ、小大名並みの待遇を得ています。
同じく、丈山も、浅野家から好待遇を受けました。
彼の広島時代の収入(禄高)は、上級旗本並の、二千石。
今で言えば、正社員を15~20人抱えているというところ。アルバイト・パートも加えて、全部で4~50人を雇って商売する企業の社長、そんな身代です。
現代の貨幣価値に換算するのは難しいのですが…丈山の年収はざっと1億円は超えているとイメージしてください。
本来なら、そのお金から、部下を雇ったりするのですが、丈山は客員待遇だったので、その出費もなく、お母さんを世話する他は、慎ましく暮らしていたそうです。
これで13年働けば、第二の人生は安泰ですね。
2)学問などを人に教え、あるいは詩・書を作ることで謝礼や協力を得ていた
つぎに、2)について。
丈山は、杜甫・李白(中国古代の大詩人)にも劣らないと称賛された漢詩の名人でした。また儒学にも通じていました。
彼の教えを受けたい、という人があれば、講義をして謝礼を受け取ることで生計を立てることが出来ます。
丈山にも弟子がいました。甥でもあった石川慈俊という人物が、詩仙堂の近く、瓜生山に住んでいたそうです。
また、丈山の養子になった石川克という人物もおり、克は丈山の死後、その作品をまとめて整理し、保存を図っています。
弟子の一人、平岩仙桂は、丈山の死後、詩仙堂の維持管理に努めています。
彼らが丈山のそばに仕えて、何かと世話したのです。
丈山の交友範囲は広く、林羅山、藤原惺窩、小堀遠州、松花堂昭乗、佐川田昌俊、板倉重宗などの著名人と親しく交流していたそうです。このうち、小堀遠州は大名。佐川田昌俊は淀藩の家老、板倉重宗は京都の代官(所司代)でした。彼らのような人たちと直接に指導し合ったり、または人を紹介してもらってそこの教師になったり…ということも出来るでしょう。
3)援助してくれる先があった
3)について。
丈山は、徳川譜代の武士であり、また、高名な文化人でもあったことで、援助してくれそうな人は少なくありません。
まず、同族から援助があった可能性。
石川家は徳川家の古い家臣だといいましたが、それだけに一族から大名や旗本を生みました。伊勢亀山藩を治めた石川家成など、10以上の家が残っています。彼らから…ということはないでしょうか。
有力候補?最後の仮説とは…
最後に、もうひとつ、候補があります。私は、これは有力候補では?と思っています。
東本願寺です。
石川家も、本多家も、本願寺の門徒でした。徳川家康がまだ若かった頃、領内に居た本願寺のお寺と、家康が、対立して、とうとう戦いになったことがあります。
三河一向一揆です。
このとき、石川、本多家の中には、主君である家康を裏切って、本願寺に味方するものも出ました。そのぐらいの熱心な信者でした。
丈山の母方の親戚・本多正信も、三河一向一揆に加わって家康に反抗、一揆が敗北しても、すぐには徳川家へ戻らず、何年も放浪していたという経歴の持ち主。
正信は、西本願寺からの東本願寺の分離・独立を家康に提言した人でもあります。
この件は、江戸幕府による本願寺教団の分断政策として、ご存じの方も多いのではないかと思います。
正信にしてみれば、一向宗の起こした内戦に加担した経験があり、その反省を踏まえ、どうすれば宗教に起因する戦いを回避できるのか…と考えていたのでしょう。
▶︎「なんで本願寺は東と西の2つもあるの? 」を読む
そういう縁もあったのでしょうか、丈山は、東本願寺に協力しました。
東本願寺は、新しい教団として成立したばかり。
当時の法主は、宣如といい、丈山からは約20歳下でした。
丈山と宣如は、直接連絡を交わしあい、かなり親密だったことが、残された文書から推定されます。
宣如は、三代将軍家光からまとまった土地を寄進され、それを自分の隠居所にするために、庭園を作ることを考えました。
そこで起用されたのが、石川丈山でした。
渉成園と名付けたのも丈山だと記録されています。
渉成園を作り始めた年と、詩仙堂(凹凸窠)が完成した年は、同じ1641年です。
渉成園は、石川丈山が、造園家として、人のために手腕をふるった、最大の例なのです。
ですから、渉成園には、中国風に名付けられた見所や、中国風の建物などが残されています。
この仕事は、無償ではなかったと思われます…もっとも、対価を得ることを、援助として分類するべきかは、迷うところです。先述の2)と3)の中間にあたるかも知れません。
話を、「丈山隠密説」に戻しますが、私は、石川丈山が幕府からの金銭的援助を受けるような経済状態にはなかったと考えます。弟子に恵まれ、知人に恵まれ、東本願寺などから引き合いのある、充実した生涯です。
付け加えるなら、文化人として名が売れ、時の上皇からもお誘いがかかるほどの有名人に、隠密をさせる必要があるでしょうか。江戸幕府は京都に代官(所司代)を設置しており、堂々と監視活動をできる立場にありました。
私は、丈山が担っていたのは、見張りや告げ口などといった低次元の役割ではなく、彼ならではの教養を生かしたものだったろうと思います。
丈山が生きていたのは、徳川幕府による新体制づくりの時代でした。戦国時代も桃山時代も終わり、島原の乱を最後に日本から内戦が無くなります。
ここからどうやって社会の安定を維持し続けるのか、それが当時の政治家らに求められる課題でした。
丈山の親戚、本多正信が、本願寺教団を2つに分け、一向宗蜂起の危険を低下させようとしたのも、その一環です。
しかし、東本願寺とその教団はまだ成立したばかり。
現代の我々は、のちに、大きな教団として発展したことを知っていますが、当時の人にすれば、「しっかり援助しなくては」「廃れさせてはいけない」という気持ちだったことでしょう。
丈山が、東本願寺法主のアドバイザーとして、彼が持つ学識を注ぎ、教団の文化的発揚を図るということは、徳川の文化・宗教政策を側面から援護することにもなりました。
丈山は、武士を引退しても、島原の乱に深い関心を寄せたり、手紙に「徳川への賊は西から現れると神君(家康)が言っていたが、明察だったな」と書いたりと、社会的政治的関心を失ったわけではなく、徳川への忠誠心さえ抱き続けていた人です。
「私は武士としては一国一城の主になれなかった。しかし文人としては名を残してみせる。そしてその影響力でもって世に貢献し、御家を輔けてみせるわい!」
くらいの気概と、心の『脂っけ』を持っていたのではないか…幾つかのエピソードを見ていて、私は感じます。
ちょっと飛躍的な想像も…
最後に、資料を踏み外して、飛躍的な想像をしてみます。
詩仙堂にある三十六詩仙図は、当時、和歌の名人だった木下長嘯子という人が、三十六歌仙の絵を書かせ、東山高台寺(秀吉の妻の住まい)の近くに置いたことを意識し、対応させて考案したというのが、一般的な見解です。
この、木下長嘯子(勝俊)は、秀吉の一門だった人です。
他にも、京都には、三十六歌仙にまつわるものがありました。
西本願寺に伝わる、最古の三十六人集(西本願寺本:国宝)と、飛雲閣に描かれた三十六歌仙(歌仙の間)です。
西本願寺は、豊臣寄り。
飛雲閣も、京都御所の隣にあった豊臣京都新城にあったものを、今の場所に移築したのだとされています。(聚楽第説は最近の研究で否定的)
偶然かもしれませんが、三十六歌仙は、何かと豊臣と繋がっているのです。
整理してみましょう。
豊臣と、徳川。
西本願寺と、東本願寺。
飛雲閣と、渉成園。
日本的教養と、中国的教養。
和歌と、漢詩。
木下長嘯子と、石川丈山。
三十六歌仙と、三十六詩仙。
対応していませんか。
丈山自身、意識していたように思うのです。
三十六詩仙というものを新しく作り出し、学者と相談し、日本一の画家にそれを描かせたのは、
中国的価値観(朱子学など)を取り入れて日本の武士を教化していくという徳川の政策に、石川丈山自身が共鳴するのだという、その表明であり、シンボルである、と。
みなさんは、どうお感じですか。
文人 石川丈山の夢の跡、詩仙堂。
今は、お寺の方々が手塩にかけた花々が四季折々に咲き誇っています。
文中に挿入しただけでは紹介しきれないほど、数多くの品種があります。
ぜひ、いちど足を運んでみてください。
参考資料
京都・山城 寺院神社大辞典 平凡社京の古寺から3 詩仙堂 淡交社
石川丈山と詩仙堂 自費出版 山本四郎
京都名庭を歩く 光文社新書 宮本健次
日本茶の湯文化史の新研究 雄山閣 矢部誠一郎
丈山苑公式ホームページ
石川丈山研究余話 山本四郎
「枳殻御殿古之記」について 村岡正
鴨川倭歌考 伊東勉