もともと平安京の町は道路に囲まれた一つの区画が一つの町でした。
これを「四面町」と呼びます。
しかし家屋の多い旧市街地では同じ道路に面した家同士の結びつきが強まって面した道路ごとに四つの町に分かれていき、そのうちかつては別の町だった向かい側の町と一体化して、道を挟んだ両側同士が一つの町になりました。
これを「両側町」といいます。いわば「向こう三軒、両どなり」重視の関係ですね。
では実際に四面町と両側町ではどのように町の形が違うのか地図で確認しましょう。

こちらは京都の主要ターミナルの一つ、四条大宮のまわりの地図です。
ここはちょうど新市街地と旧市街地の境界になっていて、中央上よりの大宮駅(四条通)から南に向かって引かれている区の境界線の左側、中京区の地域は新市街地(大正7年(1918)以前は葛野(かどの)郡壬生(みぶ)村の区域)で四面町のまま残り、境界線の右側、下京区の地域は旧市街地で両側町になっています。

左側と右側、一見して一つの町の大きさが全く違います。また左側では町同士の境界がおおむね道路なのに対し、右側では町の真ん中を一本の道路が貫く形になっています。(町の境界の点線が見にくいので左右2つずつの町に赤線で境界を入れてみました)
このように新市街地と旧市街地では町の大きさ、形、道路との関係がすべて違っているのです。
旧市街地の周辺部では多少形が違っている町もありますが、中心部の四条烏丸あたりでは広い範囲できれいな形の両側町が並んでいます。




町の団結と自治意識を今に伝える「同一町名」

両側町は戦国時代には戦乱や盗賊の略奪などからの自衛のため、街の両端に木戸などを設けて中央の一本の道路を守ってきました。そして豊臣秀吉の支配下で一つ一つの町ごとに裁判と警察以外の自治権を認められ、町は戸籍や土地建物の管理もできる、今の区役所に近い役割まで担ってきた歴史があります。
祇園祭の山鉾を出す地域では、山鉾の所有権や巡行を指図する責任も町単位で持っていました。
こうして両側町では江戸時代までに、手洗水(てあらいみず)町のようにその町の由緒にちなんだ名前、衣棚(ころもたな)町のように商売にちなんだ名前、大黒町のように縁起のいい名前などをつけ、各々が自分の町への誇りと他から干渉されない独立性を持って発展してきました。
明治になって設置された「区」よりずっと歴史のある「町」は、ある意味で区の中の同一町名には構うことなくそれぞれの歴史を残してきたのだと思います。そして1960年代から全国で住居表示が実施された際も、京都市は政令指定都市の中で唯一これを採用せずに昔からの住所の仕組みを続けたのです。
一つの区の中に同じ名前がある京都の町名と長い住所、それは町の誇りと住民による自治の歴史を今に伝える貴重な遺産なのかもしれません。

このような京都の旧市街地の住所や町名の仕組みは住所表示だけでなく市民生活の
いろいろな場面に深くかかわっています。
そこで次回は京都の旧市街地の住所や町名の仕組みが、全国一律のシステムと合わないためにこんなことが起こったんだよ、という実例をご紹介したいと思います。

<主要参考文献>
『角川日本地名大辞典26 京都府上巻』(1982 角川書店)
秋山國三、中村研「京都『町』の研究」(1975 法政大学出版会)
今尾恵介『住所と地名の大研究』(2004 新潮選書)
(鶴屋町の変遷について、2017年の辻斉氏の資料を参照しました)
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この記事を書いたKLKライター

京都の祭り・歴史研究家
小林 孝夫

 
京都市中京区生まれ、北区紫野育ち、民間企業に37年間勤務
祇園祭の魅力が忘れられず、定年を機会に埼玉県から帰郷、大学院に入学し民俗学を学ぶ
祇園祭を中心に京都の祭り・民俗行事、平安京の歴史、京都の地理・町の形成などを研究
京都府文化財保護課での祭り行事調査に参画中

現在、佛教大学非常勤講師、京都民俗学会理事、日本民俗学会会員

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祇園祭を中心に京都の祭り・民俗行事、平安京の歴史、京都の地理・町の形成などを研究
京都府文化財保護課での祭り行事調査に参画中

現在、佛教大学非常勤講師、京都民俗学会理事、日本民俗学会会員

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