京都の地名って、ホントに独特ですよね。
まず「読めない!」…不明門(あけず)通、皀莢(さいかち)町、笋(たかんな)町…
そして「住所がやたらに長い!」

たとえばこちらの掲示板の住所、頭に「京都府京都市」をつけると漢字で27文字、
ひらがなで52文字、これにまだ番地やマンション名、部屋番号がつくのです!
なぜ「東京都港区新橋2丁目17」のように短くできないのでしょうか?

こんな感じで「京都の『町』の不思議」をテーマに日本でも独特の京都の住所、その裏にひそむ「町」の仕組み、などを綴りたいと思います。しばらくの間、どうかおつき合いください。


 

なぜこんなに長いの? ――京都市の旧市街地の住所

そもそもなぜこんなに長く住所を書かなくてはいけないのでしょうか?
この理由を考える前に一つ大事な点があります。それは一口に京都の住所といっても、中心部と周辺部では表記の仕方がまったく違っていることです。
京都ではおなじみのこの2つの「仁丹看板」をご覧ください。

左の住所は「区名+地域名(紫野)+町名(東藤ノ森町)」の組合せです。
こちらは明治21年(1888)より後に京都市に編入された地域(ここでは新市街地と呼びます)で、それ以前は周辺の郡部だった地域の住所の形です。
さて問題は右の住所です。
こちらは「区名+通り名a(上立売)+通り名b(浄福寺)+交差点からの方向c(西入)+町名(蛭子=えびす町)」という形になっています。
aはその場所が面している通り、bは一番近くでaと交わる通り、cはaとbの交差点からの方向、というずいぶん長い書き方です。

こちらは明治12年(1879)に行政区域の制度ができ、京都府の中に上京区と下京区が設けられた時に最初から両区に含まれていた地域(ここでは旧市街地と呼びます)の住所です。今回の本題はこのいかにも大変そうな旧市街地の住所です。
旧市街地の範囲はごくおおまかにいって、現在の上京区の全域、中京区・下京区のうち千本~大宮通より東、東山区の主に北西部、左京区・北区・南区の各一部になります。
鴨川の東側も含まれているので「洛中」の範囲とは少しずれています。
(なお伏見区の市街地の住所も興味深いのですが、ここではいったん除きます)

ところでこの住所、「上立売通浄福寺西入」は必要なくて、「上京区蛭子町」だけで正式な住所になるじゃないか、と思いませんか?
「蛭子町」さえ分かればタクシーでも行けるし郵便だって届くはず、そう思いませんか?
いえいえそうではありません! 「上京区蛭子町」だけではタクシーで行くこともできず、郵便番号なしでは郵便も届く保証はないのです。
つまり「上立売通浄福寺西入」が住所の一部として必要なのです!
実際に戸籍謄本での正式な住所でも旧市街地では区名に続いて二つの通りの名前と交差点からの方向がわざわざ書かれているのです。
なぜ旧市街地ではこんなことになっているのでしょうか?

町名だけではたどり着けない、旧市街地の住所

今、旅行で訪れた人が「上京区蛭子町まで」とタクシーに乗ったとします。
ベテラン運転手さんいわく、「どちらの蛭子町でしょうか?」「えっ、どちらって?だから上京区蛭子町ですよ」「お客さん、蛭子町って上京区に2カ所あるのですよ」「えーっ、まさか!?」そうなのです、京都の旧市街地には一つの区の中に同じ町名が何か所もあるのです。

この蛭子町も同じ上京区の中で仁丹看板のあった上立売通浄福寺西入だけでなく、南東に1km以上も離れた堀川通の西、猪熊(いのくま)通出水上ルにもあります。
東京でいえば新宿区の中の西新宿にも歌舞伎町にも四谷にも、全く同じ「○○町」がある、町名だけではどこに連れていかれるか分からない、そんな感じだと思ってください。
京都の旧市街地の住所が長い大きな理由、それは「同一区内に同一町名があって、通り名がないと場所を特定できないから」なのです。


 

長い住所の原因「同一区内同一町名」は 4つの区に250以上!

ではこのように一つの区に同じ町名がいくつもあるケースは京都市内にどれだけあるのでしょうか? 私が実際に数えてみたのが次の表です。

「亀屋町」は中京区だけで5か所あります。
上京区・下京区を合わせると11か所です。
そして一つの区内の別々の場所に2つ以上存在している町名は「亀屋町」「大黒町」以下84町名になり、この中の町の数を全部合わせると全部で252もありました。
つまり先ほどの「上京区蛭子町」のように、「区名+町名」だけでは場所が特定できない町が旧市街地に252町あるのです。
これは旧市街地全体の町の総数の約15%になります。これだけあると旧市街地では町名だけで住所を表せなくなってしまいますよね。


 

亀はいっぱい、鶴はゼロ?

ここでちょっと脱線、京都の旧市街地で一番多い町の名は表の通り「亀屋町」ですが亀と対になるはずの「鶴屋町」は実は京都市内には一つもないのです。
17世紀半ばの京都の地誌、「京雀」には亀屋町と鶴屋町は6つずつ記されていたのですが、徳川綱吉が娘の鶴姫を溺愛するあまり庶民が鶴の字を使うことが禁止され、鶴屋町が亀屋町や他の町名に変えられたから、と言われています。
亀屋町と鶴屋町、将軍のわがままの歴史(?)をのぞいているようでちょっと面白いですね。


 

周辺とは全く違っていた、旧市街地の「町」の成り立ち

ところで「こんなややこしい状況がなぜ続いて来たの? 他の街のように区画整理はしなかったの?」と思う方も多いと思います。
私の推測も入りますが、これには京都の旧市街地の一つ一つの「町」(亀屋町などの単位)の成立ちと自治の仕組みが大きく関わっています。

もともと平安京の町は道路に囲まれた一つの区画が一つの町でした。
これを「四面町」と呼びます。
しかし家屋の多い旧市街地では同じ道路に面した家同士の結びつきが強まって面した道路ごとに四つの町に分かれていき、そのうちかつては別の町だった向かい側の町と一体化して、道を挟んだ両側同士が一つの町になりました。
これを「両側町」といいます。いわば「向こう三軒、両どなり」重視の関係ですね。
では実際に四面町と両側町ではどのように町の形が違うのか地図で確認しましょう。

こちらは京都の主要ターミナルの一つ、四条大宮のまわりの地図です。
ここはちょうど新市街地と旧市街地の境界になっていて、中央上よりの大宮駅(四条通)から南に向かって引かれている区の境界線の左側、中京区の地域は新市街地(大正7年(1918)以前は葛野(かどの)郡壬生(みぶ)村の区域)で四面町のまま残り、境界線の右側、下京区の地域は旧市街地で両側町になっています。

左側と右側、一見して一つの町の大きさが全く違います。また左側では町同士の境界がおおむね道路なのに対し、右側では町の真ん中を一本の道路が貫く形になっています。(町の境界の点線が見にくいので左右2つずつの町に赤線で境界を入れてみました)
このように新市街地と旧市街地では町の大きさ、形、道路との関係がすべて違っているのです。
旧市街地の周辺部では多少形が違っている町もありますが、中心部の四条烏丸あたりでは広い範囲できれいな形の両側町が並んでいます。




町の団結と自治意識を今に伝える「同一町名」

両側町は戦国時代には戦乱や盗賊の略奪などからの自衛のため、街の両端に木戸などを設けて中央の一本の道路を守ってきました。そして豊臣秀吉の支配下で一つ一つの町ごとに裁判と警察以外の自治権を認められ、町は戸籍や土地建物の管理もできる、今の区役所に近い役割まで担ってきた歴史があります。
祇園祭の山鉾を出す地域では、山鉾の所有権や巡行を指図する責任も町単位で持っていました。
こうして両側町では江戸時代までに、手洗水(てあらいみず)町のようにその町の由緒にちなんだ名前、衣棚(ころもたな)町のように商売にちなんだ名前、大黒町のように縁起のいい名前などをつけ、各々が自分の町への誇りと他から干渉されない独立性を持って発展してきました。
明治になって設置された「区」よりずっと歴史のある「町」は、ある意味で区の中の同一町名には構うことなくそれぞれの歴史を残してきたのだと思います。そして1960年代から全国で住居表示が実施された際も、京都市は政令指定都市の中で唯一これを採用せずに昔からの住所の仕組みを続けたのです。
一つの区の中に同じ名前がある京都の町名と長い住所、それは町の誇りと住民による自治の歴史を今に伝える貴重な遺産なのかもしれません。

このような京都の旧市街地の住所や町名の仕組みは住所表示だけでなく市民生活の
いろいろな場面に深くかかわっています。
そこで次回は京都の旧市街地の住所や町名の仕組みが、全国一律のシステムと合わないためにこんなことが起こったんだよ、という実例をご紹介したいと思います。

<主要参考文献>
『角川日本地名大辞典26 京都府上巻』(1982 角川書店)
秋山國三、中村研「京都『町』の研究」(1975 法政大学出版会)
今尾恵介『住所と地名の大研究』(2004 新潮選書)
(鶴屋町の変遷について、2017年の辻斉氏の資料を参照しました)
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この記事を書いたKLKライター

京都の祭り・歴史研究家
小林 孝夫

 
京都市中京区生まれ、北区紫野育ち、民間企業に37年間勤務
祇園祭の魅力が忘れられず、定年を機会に埼玉県から帰郷、大学院に入学し民俗学を学ぶ
祇園祭を中心に京都の祭り・民俗行事、平安京の歴史、京都の地理・町の形成などを研究
京都府文化財保護課での祭り行事調査に参画中

現在、佛教大学非常勤講師、京都民俗学会理事、日本民俗学会会員

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祇園祭を中心に京都の祭り・民俗行事、平安京の歴史、京都の地理・町の形成などを研究
京都府文化財保護課での祭り行事調査に参画中

現在、佛教大学非常勤講師、京都民俗学会理事、日本民俗学会会員

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