最後に周山城の記述が出てくる資料を紹介しておく。
 『宗及他会記』によると、天正9年(1581)9月15日、光秀は周山の「彼山」において、堺の津田宗及を招き「十五夜之月見」を楽しんだ。「彼山」とは周山城のことと考えられる。おそらく周山城の天主で月見をしたと思われる。
 どのような天主があったかは、NHKが作成したビデオのような複数層の天主閣が、現存したかも知れない。
 周山城は光秀滅亡後も使用され、『兼見卿記』によると、天正12年(1584)2月4日、羽柴秀吉が「丹州シヲ山ノ城」に下向している。秀吉が登城している。
 天正12年当時、秀吉の家臣だった加藤光泰が城主に命じられたという記録もある(『寛政重修諸家譜』)。

 

おわりに

大河ドラマ「麒麟がくる」を通して、光秀のはたした役割を多くの方々に認識してもらえたと思われる。
天正元年、越前朝倉攻めの際、「金ヶ崎退き口」において従来、「藤吉郎の退き口」といわれ、藤吉郎一人が殿を努めたように描かれてきた。しかし、藤吉郎一人ではなく、光秀と池田勝政と三人で殿を努めた文書が若狭で出てきたので、脚本家と相談し、その様に描いてもらった。歴史家の勤めでもある。

周山城  CG復元図 NHK作成

光秀は秀吉に山崎の合戦で敗れ、非業の死を遂げ、池田勝正は鳴かず飛ばずで消え、一人勝ち残った秀吉が「金ヶ崎退き口」の手柄をひとり占めし書き残されるのである。勝者だけの歴史では本当の歴史は紡げない、敗者の歴史も掘り出していかなければと思っている。
今までは、光秀は謀反人・人殺しの悪人と思われてきたが、江戸時代は下剋上は否定されるので謀反人と思われても、戦国時代は下剋上なのである。
光秀の謀反の真相は?朝廷に対する信長の仕打ちを光秀が我慢できなかったのではないか? 私は、信長非道阻止説を唱えている。ドラマでもそれに近い形で描いてもらった。歴史は負けた側が悪く陥れられるが、光秀の復権に少しでも風穴を開けられたと思っている。

感想や質問事項

※ 光秀は本能寺の変を起こした後、国つくりのビジョンがあったのであろうか?
※ ドラマで描かれていたように、光秀が生き延びてて欲しいと今でも思っている。
※ 日本100名城続編が出版されたが、更に続編には周山城を記載して欲しい。
※ 日本史は人物の善悪で教えられてきた。光秀を大河ドラマを通して勉強ができ、イメージが段々と変わって来た。
※ 亀山城の印象をお聞きしたい。
※ 山城の石垣はどこで採集してきたのか?
※ 光秀と津田宗及との月見をした資料の出展は?

小和田哲男氏と参加者との質疑応答は、和気藹々の雰囲気で遣り取りが行われた。

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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