令和3年 大船鉾祇園祭後記

▶︎大船鉾保存会代表理事 木村 宣介 祇園祭は疫病に負けたのか

令和3年4月15日、連合会代表者会議において2年連続の山鉾巡行中止の指針が連合会理事会より示され、本年も山鉾巡行は中止となった。その席で私は、「新型コロナ禍では山鉾巡行は不要のものなのか?」周りに「しつこいぞ!」と言われながらも三度同じ質問を理事会執行部に投げかけた。返答は頂けなかった。「やらなければ」という思いを持っておられるかが知りたかった。できる、できないは別にして山鉾連合会は山鉾巡行をする為の組織である。困難下でも、ぎりぎりまでやれる方法を模索しなければならないし、昨年同様の祭事3ヶ月前の巡行中止の決定は余りに早過る。

早々と巡行中止が決定された一方で、「人に見てもらう為ではなく、技術継承・文化財保存の為」を大義とした鉾建てを各町内の判断で万全の対策をもって行う事が緊急事態宣言が発令されていない事を条件に許された。

令和3年7月10日、先祭りの鉾建てが始まる中、例年通り四条町大船鉾保存会では町内会所にて吉符入り式を執り行った。昨年と違うのは作事三方頭領達の元気な顔を見る事ができた事だ。その席で私は「今年も鉾を渡す事は出来ない。今年の鉾建ては技術伝承・文化財保存の為に許されたが、大船鉾では四条町内で出来得る最大限の疫厄退散のお祭を一丸となって行おう。」と宣言した。

昨年、鉾建てを断念した悔しい経験から、この1年、その要因とした保存会内の御信心の総力を上げるべく努力した。

「神人和合」を掲げ、それぞれの立場で神と共に目に見えぬ大きな力を生み出す。その力が免疫力をも生み出すのが疫厄退散のお祭の本義であると言い続けた。役員一同で神社への参拝の機会を増やし、感じれるかどうかは別にして、神を感じる機会を増やした。
組織強化の為、副理事長2人を選任し、祭事を全うすべく巡行を想定した全ての準備に早々と取り掛かった。同時に、新型コロナウィルス感染症の勉強、データ収集を行い、私共で出来得る対策を模索した。

昨年とは違い、5月の総会では、誰一人として「鉾建てを止めよう」という者はいなかった。これは、新型コロナウィルスが既知の存在になった事もあるが、何より「今年はやらなければいけない」という思いを保存会メンバーが1年間の活動を通じて共有してくれた結果であると考える。

今年も町内のみの居祭りではあるが、山鉾連合会からは曳き初めの中止と午後7時以降の鉾上囃子を含む路上での宵山行事の自粛、駒形提灯の点灯自粛の指針が示され、申し合わせの上、出来る事、出来ない事を棲み分けし、ルールの範囲で最大限のお祭を行う事とした。

関係者一同Tシャツの背中に「蘇民将来之子孫也」の文字を背負い、一丸となっての疫厄退散の祭にする事を誓った。

7月18日、木槌の音が鳴り響き、2年ぶりの鉾建てが始まった。鉾の組立・縄絡みを担当する手伝い方に新人の姿があった。縄絡み技術の伝承を目の当たりにする。

また、恥ずかしながら町内・保存会が管理を担当する資材、装飾品が見つからない案件が発生した。漆塗り部材が増え丁寧な作業が求められた事もあるが、2年ぶりの鉾建には想定以上の時間を要した。疫厄退散と意気込んだが、技術継承、文化財保存の為にも今年の鉾建てがいかに必要なものか、初日にして気付かされる事となった。

船尾装飾
撮影:三宅徹氏

19日には舳先に昨年度事業で漆箔を施した金の龍頭を、船尾に本年度事業で瀧尾神社様よりご寄進頂いた艫下幕板飾り彫刻三面「鳥龍・海馬・犀」を鉾に装着し、お披露目する事ができた。鉾に着け確認し、初めて事業終了となるが、何れも神々しく素晴らしい出来映えであった。

船尾装飾
撮影:三宅徹氏

20日の鉾建ての最後に行われるのが車掛けだ。復興した年から続けている車輪(たま)と車軸の調子を見ながらの試運転である。車掛けは関係者だけで行われ、若返りを目指す車方にとっては格好の練習の機会となった。例年この日の午後から行う曳き初めは申し合わせ通り中止としたが、地元の人達が無病息災のために曳き綱に触れる習慣がある為、鉾に短い綱を繋げ用意し、消毒の後に触れて頂いた。

宵山期間中は例年通りNPO法人都草のメンバー、平安女学院大学の学生さんにご協力頂きながら、申し合わせで決められた時間に授与を行った。我々は宗教家ではない。しかしながら、大船鉾には町衆信仰では有るが、祇園牛頭天王の御神号と神功皇后を主神とした4体の御神体が有り、御信心の方が毎年参拝に来られ、ちまき、お守り、安産の御腹帯等の授与品をお求めになってお帰りになる。今年はありませんでは済まされないのである。21日は例年通り下京消防署と共催の防災消火訓練を行った。22日には神籬行列で大神様が台車に乗ってお越しになられるとの事、鉾上でのお迎え囃子は失礼と判断し、路上に降りて、神楽の囃子でお迎えした。大神様が囃子の前でしばしお止まり頂く事となり、囃子方の長老の目に涙が溢れ出し、それにグッときて熱いものが込み上げる。最高の囃子を奉納する事が出来た。23日は日和神楽だが、四条寺町の御旅所へ行く事は許されず、町内のみで行った。鉾が無かった頃は連合会にも入れてもらえずに町内のみの日和神楽だったので何故か懐かしい。宵山の最後の行事を薄暮で終える違和感。申し合わせで今年は人が集まるという理由で午後7時以降駒形提灯に灯りを灯せない事となった。日没が午後7時頃なので敢えて配線しなかった。大船鉾には「御献灯は人間の為の灯りでない」と消しても消しても灯す者がいるからだ。

24日朝、連合会榊巡行に向かう私と立木副理事長、そして四柱の御神体を乗せた鉾が、巡行さながらに囃子を奏でながら四条通まで送り出してくれた。榊巡行中は「早く町内に帰りたい。鉾の側に居たい。」との思いから御旅所での拝礼が終わるや、早足で帰町した。留守居の中村副理事長が四条通りまで迎えに出てくれた。囃子は「流し」。帰町の囃子だ。聞けば榊巡行中、ずっと、巡行路に合わせた囃子をしてくれていたとのこと。鉾の向きは逆だが榊巡行と鉾が繋がった。

山鉾 拝礼巡行の様子
撮影:三宅徹氏

祭事を終え、正直通常の巡行後の、あの真っ白になる「やった感」はないが、精一杯の疫厄退散のお祭りができたと思う。また鉾建てを含む出来得る最大限のお祭が大船鉾では技術の継承の為、心の継承の為にも不可欠であったと考える。来年の巡行復活に繋がる良い祭りができた。

山鉾 拝礼巡行の様子
撮影:三宅徹氏

昨年も記したが、私は日本人が安心を得るためには先祖を敬い、神仏を畏れ敬う御信心が必要であると考える。私も人間である。科学・医学に助けを求める事もあるだろう。しかしながら、一番に神を信じ神の為のお祭を続けていく。最後の一人になっても。

鉾町の人間には鉾町の人間に与えられた使命がある。また来年も覚悟を決めその役割を果たすべく精進潔斎し、厚き御信心をもって祇園祭に臨む。

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この記事を書いたライター

 
1969年8月8日生まれ
堀川高校卒業
立命館大学経営学部卒

祇園祭の関わりは
6歳から18歳まで月鉾の囃子方を務める
21歳 家業のきものや㈱木村商店に就業 この年より大船鉾の居祭りを手伝う
27歳 大船鉾の囃子方発足に参加
33歳 結婚を機に四条町に居を移すに伴い神事役員に就任
41歳 四条町大船鉾保存会財団法人化に伴い業務執行理事に就任
50歳 公益財団法人四条町大船鉾保存会代表理事に就任

肩書き
(株)木村商店 取締役
公益財団法人四条町大船鉾保存会代表理事
公益財団法人祇園祭山鉾連合会評議員
一般財団法人伝統文化保存協会評議員
成徳自治連合会理事
成徳自主防災会会長

京都生まれの京都育ち。
泣く子も黙るバリバリの京男ですが、義理人情に厚く涙もろいところもあります。
神様事に関しましては常に直球勝負です。

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