▲「日本地理大系 近畿篇」より「はたの姥」

▲「日本地理大系 近畿篇」より「はたの姥」

そしてもう1つ特徴的なのは「はたのあば」が商売上手やということ。売れると見たら強引にでも買わせる手腕があったとか!「弥次喜多道中記」にも「はたのあば」にはしごを買わされたお話があるそうですから、その強気は有名なことやったんですね。

また梅ケ畑は、あの承久の乱の後鳥羽上皇さんが北条氏に追われ逃げ込まはった場所でもありました。「はたのあば」は荷物を運ぶときにクッションを頭に乗せていますが、それは後鳥羽上皇が自分の衣服の袖をお米の袋として使うように言ったのが始まりで、彼女らは非常にそのことを大事に思っていたそうです。また、時代が下ると皇室で大事な御用を仰せつかり(注6)さらに皇室との関わりが強い地域となりました。きっと梅ケ畑の人たちは誇りを持ってこの地で生活をしてこられたことでしょう。くらかけを運んできた「はたのあば」の強さにはそんな下地があったのかもしれません。しかし「はたのあば」も次第に時代の波におされ、いつしかその行商も絶えてしまいました。

西陣とともに生きるくらかけ

このようにくらかけは、京都の長い歴史の中でしっかりとその役目を果たし生きて来ました。中でも西陣の機織りには無くてはならんもんやったと思います。織機(しょっき)の前に座るときの小さな椅子として、糸や紋紙の調子を見る踏み台として、はさみや杼などの道具を置く台として。その小さな小回りの利くくらかけは、他の椅子などと比べてもかなり便利な道具やったと思われます。そのため、もう「はたのあば」が売りに来んようになってもほかさんと大事に大事に使う。黒光りするまで、付喪神になるまで、長い期間使い続けられたのです。

西陣は何度も景気のええ時代がありました。直近では高度成長期。織っても織っても売れた時代です。そのころはくらかけもフル回転で使われてたのでしょう。

「西陣の旦那さんはもちろん、織子の羽振りも良かったし、ワシらに座って機織ってる時間も長うなったもんや。嬉しかったなぁ。」

付喪神やったら、きっとこう言うたに違いありません。そやけど西陣も、昔の隆盛からは程遠い状態となりました。西陣の中心地に来ても、機の音が響く街並みはどこかへ行ってしまったよう。機を織る音が「うるさい!」と言われるところまであったと聞きました。西陣と言われる地域の中でも西陣織はそのごく一部としての存在になってしまったのです。

でも京都人は物持ちが良い。くらかけをこれからも大事に使います。機の前に置かんようになっても、その「暗い影に潜む」付喪神になっても。いつかまた西陣に活気が戻ってくることを願いながら…

注:
(1)「宇治拾遺物語」1221年ごろ 「移(うつし)の鞍二十具、くらかけにかけた りけり」
(2)以下に椅子として使われた記述がある。
「禅鳳雑談」(1513頃)「禅鳳とくらかけにて見物申候」
「多聞院日記」天正15年(1587)「昨日より薪の能の鞍懸立了」
(3)資料には「はたのおば」と表記されることが多い。
(4)「日本百科大辞典」2巻 p.109-110
(5)「京の女人風俗」京都新聞社編p.43 「日本百科大辞典」2巻 p.109-110「大原女」の項では「高雄女」の解説として約90kg(24貫目)の荷物を乗せたという記述がある。
(6)同上 p.41「大嘗火頭(大嘗祭で火の管理をする役)」を行っていた。また、16世紀前半、梅ケ畑の住民は通行税を取られないという特権を持っていた。「はたのあば」の衣装は、そこの住民であるという証明でもあったという。 
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鳴橋庵 店主・京都上京KOTO-継の会 会長
鳴橋 明美

 
上京の、形になりにくい文化(お祭・京都のおかず・伝統工芸・京ことば)の継承のお手伝いをする「京都上京KOTO-継の会」会長。
「鳴橋庵」店主。
「能舞台フェスタ in 今宮御旅所」実行委員会会長。

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