自己紹介とマイルール

皆様はじめまして。京都祇園八坂神社権禰宜の仲林亨と申します。今回より祇園祭のことについての記事を書かせたいただくことになりました。宜しくお願いします。

先にお断りしておきますね。私は八坂神社に奉職する者ですが、これから私が述べていくことは八坂神社の公式見解ではなく、私の個人的見解です。そこをお忘れなきよう読んでいただければ幸いです。
そして、私はその個人的見解を語る際、守るべきルールを決めています。
①過去の事柄を語る際、歴史的史料に基づいて語ること。
②歴史的史料は自分の目で確認し、人が言ったことを鵜呑みにしないこと。
③歴史的史料の「記述」と自分の「解釈」を明確に区別すること。

これらのことを具体的に説明するためにクイズを出します。祇園祭の由緒を説明した次の文章の間違い(問題点)を指摘して下さい。

貞観11年(869)疫病が流行した際、卜部日良麿が勅を奉じ、6月7日に長さ2丈程の矛66本を神泉苑に建て、同じく14日に洛中の男児及び郊外の百姓を率いて牛頭天王を祀る神輿を祇園社(現八坂神社)から神泉苑に送った。これを祇園御霊会(現在の祇園祭)と言う。  
(『祇園社本縁録』より)

この由緒、祇園祭のはじまりを説明するためによく引用されますよね。ですがこのような由緒を見る度に、私は苦々しい思いがしてならないのです。なぜならば、この由緒は一見歴史的史料に基づいた内容に見えますが、そうでない部分も含まれているからです。

八坂神社・神泉苑位置関係図(赤い線は八坂神社氏子区域の目安を表します)

八坂神社・神泉苑位置関係図(赤い線は八坂神社氏子区域の目安を表します)

歴史と元ネタ

貞観11年という平安時代のことを実際に知る人は現在誰もいません。よって私たちは今の世に残された記録から過去を復元し、復元された内容を語るのです。よって「歴史を語る」という行為は正確には「復元された歴史を語る」ということです。そのため、歴史を語るには証拠となる史料、つまり「元ネタ」が必要なのです。
では先程の由緒の元ネタとなった記述を引用してみます。

貞観十一年天下大疫の時、(中略)卜部日良麿勅を奉じ、六月七日六十六本矛長二丈許を建て、同十四日、洛中男児及郊外百姓を率ゐ神輿を神泉苑に送り以て祭る。是祇園御霊会と号す。(原文は漢文。書き下し筆者。)

この元ネタに忠実な由緒を書くと以下のようになります。
貞観11年(869)疫病が流行した際、卜部日良麿が勅を奉じ、6月7日に長さ2丈程の矛66本を建て、同じく14日に洛中の男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神泉苑に送った。これを祇園御霊会(現在の祇園祭)と言う。

はじめの由緒と見比べてください。問題点は以下の通りとなります。
A.66本の矛を「神泉苑に建てた」とはどこにも書いていない。
B.神泉苑に送られた神輿が「牛頭天王を祀る神輿」だとはどこにも書いていない。
C.神輿が「祇園社から出発した」とはどこにも書いていない。
D.そもそも『祇園社本縁録』は現存しない。

66本の矛は神泉苑に建てられたのか?

Aに関してはどこに建てたとは史料に書かれていないので、神泉苑に建てたという解釈もあり得ると思います。神泉苑に建ってないとは言いません。ですが、まずは「元ネタには場所に関する情報が書かれていない」ということが重要ポイントです。神泉苑に矛を建てたと書いてある他の史料があれば証拠になりますが、そのような史料は今のところ見つかっておりません。よって、あたかも歴史的史料に「神泉苑に66本の矛を建てた」と書かれているかのように思わせる由緒説明にはツッコミを入れたくなるのです。どこに書いてあるんですか?って。

ですので、場所を特定することなく「66本の矛を建てた」とのみ言う方が誠実ではないかと。「①過去の事柄を語る際、歴史的史料に基づいて語ること」とはこういうことです。

神輿には誰が乗っていたか?

次にBについて。現在、八坂神社の主祭神は素戔嗚尊様ですが、かつては牛頭天王とも呼ばれていました。よって「牛頭天王を祀る神輿」は一見正しいように思えます。ですが、元ネタには神輿とあるだけです。そんなことを言うと「元ネタに書いてなくても今は素戔嗚尊様が乗ってはるんやから、平安時代には牛頭天王が乗ってはったに決まってるやろ!」と叱られそうです。でも疑うには理由があるんです。

現在の神輿というものは、神社にいらっしゃる神様が御旅所や氏子地域に向かわれ、また神社にお戻りになる際に乗られる乗り物です。この感覚に沿うならば貞観11年も祇園社の神様が神輿にて神泉苑に向かわれたという理解でいいと思います。ですが、昔の神輿はそのような性格だけではないようです。

祇園社の記事ではありませんが、『本朝世紀』正暦5年(994)6月27日条には
此の日、疫神を為て、御霊会を修めらる。木工寮修理職御輿二基を造り、北野船岡山に安置す。先ず僧侶屈み、仁王経を誦えしむ。城中の伶人音楽を献り、会集の男女幾千人を知らず。幣帛を捧げるは、老少街衢に満ち、一日の内に事了。此山境へ還し、彼より難波の海へ還し放つ、云々。この事は公家の定めに非ず。都人蜂起し勤修なり。

とあります。ここに描かれる神輿は船岡山に据えられてから儀礼を行い、その後難波の海にうち捨てられる神輿なのです。神輿に乗っていた神様はどうなるん!?という感じですが、乗っていたのは疫病を流行らせる疫神です。悪さをして疫病を引き起こす疫神達を集め、儀礼や参拝を行った後に、御霊会(疫病を鎮めるための儀礼)を行った人々の生活圏外に追いやってしまうための乗り物として神輿が登場するのです。

また、時代は下りますが貞観11年の由緒とよく似たものが明応9年(1500)成立の『中臣祓抄』にあります。
貞観18年(876)疫神祟を作し、万人病を発し、吾が廿代先祖日良麻呂、京中の男女をひきいて、六月七日、疫神を神泉苑へ送るなり。其の次の年、又疫神祟るほどに、百姓神輿を神泉苑に送り、爾来、年々六月七日に此の如くしつけて、是を祇園の会と云なり(後略)。
これは現在の吉田神社にてかつて神官を務めた吉田家(卜部家)の記述で、貞観18年となっている等の異同はありますが、神輿ではなく「疫神を神泉苑へ送る」とある部分が注目ポイントです。かなり時代が下がった頃の記述ですので信憑性には問題ありですが、先程の『本朝世紀』の内容と併せて読んでみるとあながちデタラメでもなさそうです。

これらの史料をもとに、神輿とは「神社の神様が移動するための乗り物」であると同時に、「疫神を集め流すための装置」でもあったと考えられるのではないかと思うのです。ですので、「B.神泉苑に送られた神輿が牛頭天王を祀る神輿だとはどこにも書いていない」という問題点が指摘できるのです。また、祇園御霊会と言うのですから祇園社から神輿を送ったのだとは思われますが、100パーセントそうだとも言い切れませんので、「C.神輿は祇園社から出発したとはどこにも書いていない」と言えるのです。

ではなぜ、史料に書かれていない説明を含んだ由緒を現在よく目にするのでしょうか。それは由緒を語る人が古語にて書かれた内容を今の人にもわかりやすく説明しようと工夫した結果、自分の「解釈」を付け加えて語るからではないでしょうか。そうすると歴史的史料の「記述」と自分の「解釈」がごっちゃになり、あたかも史料に基づいているかのような姿をして実はそうではない説明が世に広まっていきます。良くないですね。ですので「③歴史的史料の『記述』と自分の『解釈』を明確に区別すること」が私のルールとなりました。そうしないと昔の人に怒られそうです。「わし、そんなん書いてへんで」って。

『祇園社本縁録』、どうやって読んだんですか?

そしてD。祇園祭の由緒に言及する人がよく「『祇園社本縁録』によると・・・」としてますが、現在『祇園社本縁録』という書物は存在しません。その代わりに明治36年八坂神社から刊行された『八坂誌』に『祇園社本縁録』を典拠とした貞観11年の由緒が載っています。当時はまだ残っていたのでしょうね。ですので「『祇園社本縁録』にこう書いてあるよ」と今言っている人は『祇園社本縁録』を見てません。本がないんですから。『祇園社本縁録』を引用している文章の多くは『八坂誌』に載っている『祇園社本縁録』の内容を引用している、もしくは他の人が「『祇園社本縁録』にこう書いてある」と言うのをそのまま引用しているということになります。
これ、引用方法の中でも「孫引き」といって史料自体を確認していない、ダメな行為なんです。私、これしたくないんです。ですので「②歴史的史料は自分の目で確認し、人が言ったことを鵜呑みにしないこと」を肝に銘じています。
ですが、『祇園社本縁録』の内容と同内容のものを載せるのが『祇園本縁雑実記』という史料です。寛文10年(1670)以降に書かれたものと考えられています。 

ちなみに祇園祭に奉仕する宮本組の澤木政輝さんは『祇園の祇園祭』の中で、『八坂誌』に引用されている『祇園社本縁録』の内容34箇所と現存する『祇園本縁雑実記』の内容が一致するということを検証されています。頭が下がります。
「人が言ったことを鵜呑みにしない」とは先行研究の成果を無視することではありません。大いに参考にします。ですが史料の確認はします。元ネタを見ずに引用するのは嫌なので、祇園祭の由緒を語る際、私は『祇園社本縁録』ではなく、『祇園本縁雑実記』を典拠としています。

初回のむすび

以上、第1回目から重箱の隅をつつくような細かい話でしたね。でもこれが私のスタイルです。
わかりやすい説明をしようとすればするほど、自分独自の解釈が入り込んで元ネタからかけ離れた表現となります。ですが、わかりやすい説明って伝播力が強いので改変された由緒が各種メディアを通して世の中に溢れていきます。これが「通説」です。
この通説を無条件に受け入れるのではなく、一度疑ってみる。そうすることにより新たな祇園祭が見えてくるかもしれません。これからもこんな感じで「通説」を疑ってみましょう!

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この記事を書いたKLKライター

八坂神社 権禰宜
仲林 亨

昭和54年生まれ。愛知県豊田市出身(非社家)。
龍谷大学哲学科に入学するため京都へ。哲学を学ぶはずが寺社に興味を持ち宗教研究を志す。
関西大学大学院比較宗教学専修に進み、三条小鍛治宗近の伝説を題材とした「刀鍛冶の信仰」を修士論文として提出。その後、山科区にて塾講師となるも色々あって神職になるため三重県伊勢市の皇學館大学神道学専攻科に入学。平成20年より八坂神社に奉職。現在は学術分野を担当し、各種講演や参拝者への講話を行なうと共に、国宝である御本殿を始めとした文化財保護に携わる。令和6年京都芸術大学の通信教育課程にて学芸員資格を取得。
『祇園祭 温故知新』(令和二年、淡交社発行)に講演録「戦中・戦後の祇園祭」が収録されている。

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昭和54年生まれ。愛知県豊田市出身(非社家)。
龍谷大学哲学科に入学するため京都へ。哲学を学ぶはずが寺社に興味を持ち宗教研究を志す。
関西大学大学院比較宗教学専修に進み、三条小鍛治宗近の伝説を題材とした「刀鍛冶の信仰」を修士論文として提出。その後、山科区にて塾講師となるも色々あって神職になるため三重県伊勢市の皇學館大学神道学専攻科に入学。平成20年より八坂神社に奉職。現在は学術分野を担当し、各種講演や参拝者への講話を行なうと共に、国宝である御本殿を始めとした文化財保護に携わる。令和6年京都芸術大学の通信教育課程にて学芸員資格を取得。
『祇園祭 温故知新』(令和二年、淡交社発行)に講演録「戦中・戦後の祇園祭」が収録されている。
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