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「忘れられない京の事件簿」~悲惨な事件現場が物語る京の歴史~前編・後編として先にサイトに投稿したが、まだまだ世にあまり知られていない事件がある。
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今回は、京都盆地が、朝廷、幕府、諸藩の政争の舞台となり、陰謀と暗殺が繰り拡げられた地となった時期の事件簿を紹介したい。
その激動の時代の人たちが下した決断が、日本の行く末を左右したとも言える。その中でも、島田左近、本間精一郎、目明し文吉、平岡円四郎、足利将軍三代木像梟首事件、佐久間象山、赤松小三郎、横井小楠を取り上げる。
1.島田左近
島田左近は、1862年(文久2年)7月20日、尊王攘夷運動が高揚し始めた頃に殺害された。享年不詳。天誅という名の尊王攘夷派による暗殺事件の初めである。
翌日、木屋町二条の北側にある竜宮門風情の善導寺前で、斬首され、高瀬川一の舟入付近に首のない死体が浮いた。その後、四条大橋上る先斗町川岸で青竹に晒された島田左近の首が発見された。
島田左近は、幕府の隠密として長野主膳(井伊直弼の側用人)らと連絡を取り合い、強権的な手法を用いて尊王攘夷派を一掃した。
江戸幕府から左近に流れた賄賂は莫大な大金であった。
町人を相手に高利貸しで莫大な金子を得ていた。権勢をふるい専制的で苛烈な政治手腕は朝廷や幕府、諸藩の浪士などに憎まれ、多くの敵を作った。また、好色であり、多くの愛人がいた。
首は青竹に刺されて、四条大橋上るの先斗町川岸で発見された。
2.本間精一郎
1862年(文久2年)8月20日夜勤王の志士本間精一郎が木屋町四条上るで岡田以蔵らに天誅を加えられ、晒された。享年29歳。
本間は「安政の大獄(幕末の大老井伊直弼が、1858年から1859年にかけて行った政治的な弾圧事件)の後、尊王攘夷派の急進派として藩に属さぬ自由な行動をとった。
寺田屋騒動により、急進派活動が挫折し、酒色に溺れた。薩摩、土佐の志士にも毛嫌いされ、幕府側のスパイと間違われ暗殺となったのである。
3.目明し文吉
目明し文吉が、1862年(文久2年)8月30日、三条京阪駅北側のだん王法林寺付近で土佐勤王党によって暗殺された。死体は裸で逆さ吊りの無残な姿で三条河原に晒された。享年不詳。
文吉の悪事は有名であったので誰一人屍を葬る人もなく、長い間河原にほったらかしになっていたと言う。
安政の大獄に際しては、「猿(ましら)の文吉」とあだ名され、島田左近の忠実なる手足として志士の機密を探索して、上司から報酬を得ていた。
志士を食い物にして多くの金を得た文吉は、二条新地に妓楼を設け、人を使って大儲けし、金貸しして女遊びも派手であったと言う。
4.平岡円四郎
平岡円四郎は、旗本から一橋家に入り、次第に重用され一橋慶喜の側用人となった。
越前の橋本佐内に説かれ攘夷から開国説に転じ、一橋慶喜をバックにした専横を憎まれ、水戸藩過激派により斬り殺された。享年43歳。
1864年(元治元年)6月14日、渡辺甲斐守の宿舎から御用談所に向かう途中での出来事だった。
暗殺された場所は?
二条城に接して「西町奉行所」(中京中学校西横)と「東町奉行所」(二条城南 神泉苑西)
の石碑が立っている。奉行所の仕事は京都や周辺地域の行政、司法、警察全般を、隔月交代で担当した。
奉行所南側一帯は与力長屋として千本組屋敷があった。慶喜は二条城での勤務を終え、二条城南側の若州(若狭)屋敷を宿舎としていた。円四郎が暗殺されたのは、与力長屋近くと推察されている。
5.足利将軍三代木像梟首事件
1863年(文久3年)2月2日深夜、北区衣笠山南麓にある等持院に安置されていた足利尊氏、義詮、義満の足利将軍三代の木像の首が盗まれる事件が起きた。翌日朝、三体の首は三条大橋下流の河原に晒された。京都の町衆は、「また、天誅かいな」と思ったが、生首ではなく、木像であった。位牌も並べられ、犯行声明をにおわす文面が添えられていた。
「逆賊足利将軍は、畏れ多くも朝廷をお悩ませつづけてきた。それが理由で首を晒した」
と…
足利氏に仮託して徳川討幕の意を表現したもので、幕末の尊皇攘夷運動のひとつである。木像三体の首と位牌は、当時の等持院住職が持ち帰り、元の場所に落ち着いた。
歴史上、足利将軍家が「逆賊」「朝敵」とされるのは、後醍醐天皇の「建武の新政」に対し、足利尊氏が反旗を掲げ、その後、南北朝の二朝廷となり、尊氏が北朝に与したことによる。この南北朝分裂により、足利将軍家への痛烈な批判、天皇に歯向かう「朝敵」という歴史観によるものであった。
この木像の首盗難事件で捕縛された犯人は9名になったが、明治維新後、事件は逆に評価され「討幕に尽力した」と判断されて、全員赦免された。その後は政治家として活躍した人もいる。
6.佐久間象山
1864年(元治元年)7月11日京都木屋町で白昼、開国派の兵学者、佐久間象山が殺害された。
象山は、外国の先進技術を学びながら国力をあげたのち、列強の仲間入りを果たすと言う、開国攘夷論者だった。
とはいえ、洋装様式の鞍をつけた白馬にまたがる象山の姿は、攘夷論者にとっては西洋かぶれの腑抜けに見えたのであった。
刺客が象山を最初に襲ったのは、三条大橋西詰、三条小橋に近いところであった。
木屋町通を北上し、象山は馬を走らせたが、御池通りに出たところで、待ち伏せていた刺客に遭い、挟み撃ちにされメッタ斬りに惨殺された。象山の小袖は血で真っ赤に染まり、翌朝、三条河原に首が晒された。享年52歳。
攘夷派の公家や長州藩士らが京都から一掃されると、報復として開国論者が攘夷派に狙われて命を落とす事件が多発した。朝廷や幕府用人らに開国を解く象山が攘夷派の刺客に狙われたのは、象徴的と言えよう。
7.赤松小三郎
赤松小三郎は、1867年(慶応3年)9月3日信濃上田藩に帰国途上、東洞院魚棚下る(下京区)で暗殺される。享年37歳。
京都に私塾を開き、英国式兵学を教える。京都の薩摩藩邸において兵制を蘭式から英式へと改変するのに指導的役割をした。
小三郎の才が佐幕派(反幕勢力たる勤王派に対して幕府政策を擁護する勢力)に利用されるのを避けるためという。薩摩藩の内情を知り過ぎていた。下手人は門下生の薩摩藩士との説が有力。
死後、金戒光明寺に葬られた。
8.横井小楠
横井小楠は、熊本藩の儒学者であったが、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、藩政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕する。
1869年(明治2年)1月5日午後、参内の帰途、寺町丸太町下ル東側(下御霊神社前)で十津川郷士ら6人組の襲撃を受け、小楠の乗った駕籠に向け発砲され暗殺される。
殺害の理由は「横井が開国を勧めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根のものであった。享年61歳。
あとがき
1862年(文久2年)~1869年(明治2年)の7年間を取り上げたが、その間、数え切れない程の事件があった。ほんの160年前の出来事であるが、幕末の京は、日本史にとって極めて重要な場所だったのである。
京以外に目を向けると、幕末の大老「井伊直弼」が行った1858年(安政5年)~1859年(安政6年)の大弾圧「安政の大獄」である。
※梅田雲浜、橋本佐内、吉田松陰など武士たち8名がとらえられ、処刑された。死罪となったのは100名以上と言われている。京でも激震が走り、血なまぐさい事件勃発の引き金となった。
1860年(万延元年)3月3日午前9時頃、江戸城桜田門外で水戸藩士17名薩摩藩士1名による彦根藩行列襲撃事件が起こった。いわゆる「桜田門外の変」である。井伊直弼は討取られ首をはねられ、その間わずか十数分だったと言われている。幕府の弱体化が更に進み始めた。
1864年(元治元年)筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)によって起こった一連の争乱が天狗党の乱である。一橋慶喜を通じて朝廷に志を伝えるため、京都を目指すが、福井県敦賀で悲惨な最期を遂げた。353名が斬首処刑された。その後、徳川家15代将軍徳川慶喜の誕生である。最後の将軍は、二条城で大政奉還をし、新しい国づくりを目指そうとした。
そして、朝廷は王政復古の大号令を全国に発し、江戸城は無血開城され、新しい明治の夜明けが始まったのである。
京の都は、1200年を経過する中で、様々な政治、経済、文化が混ざり合って進化浸透し発展してきたのである。素晴らしい良い事も沢山あったが、今回は、悲惨な事件現場に焦点を合わせた。先人たちの生きてきた息吹を感じて、前を向いて生活していきたい。
※梅田雲浜(ウンピン)は、小浜藩出身の熱心な尊皇攘夷論者である。京都望南塾で幕府を批判するなど、過激な言動が多く、捕縛され獄中死した。烏丸御池上る東側に邸宅跡には、石碑がポツンと立っている。