1200年の歴史がある情緒と風情に満ち溢れた京都には、様々な悲惨な事件があった。我々はその歴史の上で生活をしている。今 安心安全な生活があるのは、先人たちの犠牲の賜物と言っても過言ではない。

【1 平安時代 (794年〜1185年)】
①阿弖流為、母禮 802年死亡顕彰碑・清水寺 古代東北の人物 坂上田村麻呂に自ら降伏。
②平将門の乱 939年(天慶2年) 膏薬辻子首塚  神田明神
③鬼退治 大江山 源頼光 1000年頃か? 老ノ坂峠 鬼の首塚大明神
④保元の乱 1156年(保元元年) 皇室内部と摂関家内部の対立により源氏と平家の武家を用いて戦った兵乱。後白河天皇が勝ち、天皇親政がつづく。
⑤平治の乱 1159年(平治元年) 後白河天皇についた平清盛と源義朝の勢力争い、平清盛と二条親政派が勝利

【2 鎌倉時代 (1185年〜1333年)】
①承久の乱 1221年 後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討伐の兵を挙げた。
②六波羅探題 1221年(承久3年) 朝廷の動きを常に監視し、京都周辺の治安維持をする目的に設置

【3 室町時代 (1333年〜1573年)】
①応仁・文明の乱 1467年(応仁元年) 細川勝元と山名宗全の対立に将軍継承問題や畠山家と斯波家の家督争いも絡み約11年間わたって継続した内乱。ほぼ全国に争いが拡大した。
②明応の変成 1493年(明応2年) 細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件
③永正の乱 1511年(永正8年) 将軍政権抗争 船岡山争奪戦

【4 戦国・安土桃山時代 (1568年〜1600年)】
①永禄の変 1565年(永禄8年) 二条御所 室町幕府13代将軍足利義輝が三好三人衆等により殺害される。
②本国寺の変 1569年(永禄12年) 室町幕府15代将軍足利義昭を三好三人衆が銃撃。
③比叡山焼討 1571年(元亀2年) 織田信長と延暦寺の戦い。全山焼討ではない。
④本能寺の変 1582年(天正10年6月2日) 織田信長が家臣・明智光秀が謀反を起こし襲撃した事件。謀反の原因は今だ特定できず謎である
⑤山崎の合戦 1582年(天正10年6月13日) 豊臣秀吉の軍と明智光秀の軍勢が激突した合戦。秀吉が勝利。
⑥小栗栖竹藪 1582年(天正10年6月16日) 明智光秀が最期を遂げた場所 胴塚、首塚
⑦利休切腹 1591年(天正19年) 戻り橋で晒し首 晴明神社付近に居住
⑧耳塚(鼻塚) 1592年〜1598年 文禄・慶長の役 秀吉が朝鮮に軍を送る。朝鮮兵、明兵の耳・鼻を葬った?
⑨石川五右衛門 1594年(文禄3年) 三条河原で釜ゆでの処刑 大雲院に墓
⑩豊臣秀次 瑞泉寺 1595年(文禄4年) 処刑された秀次を憐れんで建立
⑪伏見城の戦い 関ヶ原合戦前哨戦 1600年(慶長5年)8月〜9月。家康の部下であった鳥居元忠が西軍と戦った。血糊のついた廊下を血天井として保存。源光庵、正伝寺、養源院、宝泉院
⑫六条河原処刑 1600年(慶長5年)11月6日 石田三成、小西行長、安国寺恵瓊 斬首

【5 江戸時代 (1603年〜1868年)】
①宮本武蔵 一乗寺の決闘 吉岡一門
②方広寺鐘銘事件 1614年(慶応19年) 国家安康 君臣豊楽 大坂冬・夏の陣へ
③豊臣国松の処刑 1615年(慶長20年)7歳 大坂冬・夏の陣 豊臣秀頼の子、秀吉の孫。六条河原で晒される。豊国廟山麓に墓
④清水の舞台から飛び降りる 234件死亡者34人 自殺ではなく願掛け

【6 幕末時代 (1853年〜1868年)】
①芹沢鴨惨殺1826年(文政9年)壬生・八木邸 新撰組初代局長が近藤派により惨殺
②近藤正慎 1858年(安政5年)舌を切って自害 月照と西郷隆盛密談 安政の大獄。入水事件(鹿児島湾) 月照水死隆盛助かる。子孫が清水寺境内で舌切茶屋経営。孫陶芸家・近藤悠三 曽孫俳優・近藤正臣
③目明し文吉 1862年(文久2年) 絞首され三条河原に晒される。安政の大獄時、密偵として活躍。土佐勤王党により惨殺、三条河原で貼り付け
④島田左近 1862年(文久2年) 木屋町で暗殺 尊攘派に天誅。四条河原町に首が晒される
⑤寺田屋事件 伏見 1862年(文久2年) 尊王攘夷派鎮圧。1866年(慶応2年) 坂本龍馬襲撃
⑥姉小路公知暗殺猿が辻 京都御所の最北東部。1863年(文久3年) 尊攘派公家
⑦池田屋事件 1864年(元治元年) 木屋町三条。尊王攘夷派浪士(長州・土佐藩士)を新撰組がかぎつけ、旅館を襲撃 9名討ち取り
⑧古高俊太郎 拷問自白 六角獄舎で斬首
⑨佐久間象山 1864年(元治元年) 木屋町御池上 木屋町 白昼暗殺。西洋への関心が高く、開国論と公武合体論者
⑩蛤御門の変(禁門の変)1864年(元治元年) 幕末、長州藩兵と幕府との京都御所付近における武力衝突事件 京都を焼き尽くした。
⑪六角の獄屋類焼 勤王派の志士38人斬首 禁門の変で火勢に見舞われ、脱獄を防ぐため全員が処刑された。
⑫新撰組山南敬助 1865年(元治2年)切腹
⑬近江屋事件 1867年(慶応3年) 坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺された醤油商。京都見回り役の犯行か?
⑭伊東甲子太郎惨殺 1867年(慶応3年) 近藤勇が招いた酒宴の帰り、新撰組により殺害される。七条通油小路付近。
⑮油小路事件  1867年(慶応3年) 伊東の死骸を引き取るために来た、御陵衛士3名が新撰組に惨殺される
⑯赤松小三郎 1867年(慶応3年) 幕末の兵学者・政治思想家 東洞院通魚棚下ルで暗殺される。
⑰天満屋事件 下京区油小路正面付近 近江屋事件の敵討ち 1868年(明治元年)中井庄五郎暗殺 1868年(明治元年)十津川郷士で龍馬と親しかった。天満屋事件で新撰組に殺害。
⑱最後の将軍徳川慶喜 二条城西門から大阪へ 会津藩主松平容保を連れて
⑲鳥羽・伏見の戦い 1868年(明治元年) 幕府軍と官軍(薩長軍)との戦い。城南宮、小枝橋付近
⑳近藤勇 1868年(慶応4年) 東京板橋で斬首 三条河原で晒し首
㉑大村益次郎1869年(明治2年)木屋町三条 襲われた傷がもとで大阪にて死亡。
㉒横井小楠暗殺 1869年(明治2年) 幕府改革や公武合体の推進に活躍。寺町丸太町下ルで十津川郷士により暗殺。

【7 明治時代 (1868年~1912年)】
①琵琶湖疏水 受難者供養塔 17名 設計者田辺朔郎氏により建立。第二疏水はトンネル式 蹴上浄水場で水道水に。

【8 大正・昭和・平成・令和時代 (1912年~2021年)】
①室戸台風 1934年(昭和9年)3037名犠牲 西院小学校 女性教員我が児童を守る。
②西陣空襲 1945年(昭和20年) 50名死亡 東山馬町・右京区春日、太秦・御所。大空襲にならず。
③チンチン電車脱線事故  堀川第一橋 1946年(昭和21年) ハイジャック事件?
④金閣寺放火事件 1950年(昭和25年) 犯人 見習い僧侶 統合失調症。三島由紀夫「金閣寺」。水上 勉 「五番町夕霧楼」。
⑤五番町事件 1955年(昭和30年) 自白から物的証拠へ 国会でも論議
⑥船岡山現職警察官殺害事件 1984年(昭和59年)元警察官が現職の警察官を呼び出し殺傷。その後、船岡山公園整備が進む
⑦京アニメ放火殺人事件 2019年(令和元年) ガソリンをまき36人を死亡させ、負傷者35人(容疑者は含まず)

平安時代 (794年~1185年)

阿弖流為・母禮(あてるい・もれ)

清水寺境内 供養碑

清水寺境内 供養碑

801年(延暦20年)に行われた征夷大将軍・坂上田村麻呂の蝦夷討伐で、勇敢に戦った蝦夷の首長アテルイと副将モレを降伏させ都に連れて帰る。朝廷に助命嘆願するが河内の地で処刑される。
石碑には、「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」と刻まれている。

 

鬼退治

鬼の首塚大明神 老ノ坂

鬼の首塚大明神 老ノ坂

源頼光が家来の四天王を従え、大江山で鬼に神酒をたらふく飲ませて退治した。打ち取った首を京に持ち帰ろうとしたが、首が老ノ坂で動かず、埋葬したといわれている。
京都市と亀岡市の境にある老ノ坂トンネル近くの脇道に入った先、旧老ノ坂峠に「首塚大明神」がある。京都の魔界スポットでも、よく取り上げられる場所である。
伝承とは言え、鬼や渡来人、盗賊がらみで興味津々な話である。

 

鎌倉時代 (1185年~1333年)

六波羅探題

六波羅蜜寺内(東山区轆轤町松原通)

六波羅蜜寺内(東山区轆轤町松原通)

鎌倉幕府の直接指導下にあり、西国での裁判機能・京都周辺の治安維持・朝廷の監視・皇位決定の取り次ぎなどを行った。京都の不穏な動きの監視を強化するために置いた機関である。
事の発端は1221年(承久3年)に起きた承久の乱。朝廷の権限を次々と奪っていく幕府に堪忍袋の緒が切れた後鳥羽上皇が、幕府に対して挙兵をした全面戦争である。「二度とこのようなことは起こさせない」そんな幕府の強い想いで設置された。
六波羅探題が衰退後、疫病や餓死者を放り投げ、野ざらしのまま腐った遺体が、骨になっていく死体置き場だった。

  
 

室町時代 (1333年~1573年)

応仁・文明の乱

陣取り合戦があった船岡山には石碑と説明版がある

陣取り合戦があった船岡山には石碑と説明版がある

細川勝元と山名宗全の対立に将軍継承問題や畠山家と斯波家の家督争いも絡み、1467年(応仁元年)から約11年間にわたって継続した内乱。ほぼ全国に争いが拡大した。
足軽たちが略奪や放火を繰り返し、京都の町は大半が焼失した。室町幕府は衰退し、守護大名たちに下剋上が起こり、彼らは没落した。100を超える戦国大名たちが群雄割拠し、一世紀に渡って天下の覇権争いをした戦国時代になった。

千本釈迦堂(上京区今出川の大報恩寺)の本堂柱には、刀や槍で傷ついた跡が見られる

千本釈迦堂(上京区今出川の大報恩寺)の本堂柱には、刀や槍で傷ついた跡が見られる

船岡山遠望 乾隆小学校屋上より

船岡山遠望 乾隆小学校屋上より

戦国 ・ 安土桃山時代 (1568年~1600年)

本国寺の変

本圀寺跡石碑(下京区堀川五条)

本圀寺跡石碑(下京区堀川五条)

1569年(永禄12年)、室町幕府第15代将軍足利義昭を三好三人衆らが銃撃した事件。
その後、織田信長は義輝の二条御所跡に新しく防御力のある二条城を築き、将軍を保護した。(烏丸丸太町現平安女学院付近)
本国寺は、堀川五条周辺に広大な敷地があったが、現在山科に移転している。

 

本能寺の変

本能寺跡石碑 中京区油小路通蛸薬師

本能寺跡石碑 中京区油小路通蛸薬師

1582年(天正10年)6月2日、本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が突如謀反を起こし襲撃した事件である。
信長は早朝寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。
本能寺の変の動機は、日本史3大ミステリーとも言われている。

 

山崎の合戦

山崎の合戦石碑

山崎の合戦石碑

中国地方の毛利氏を攻略中の豊臣秀吉は、本能寺の変で信長の死を知った。中国遠征を中断し、全軍で京を目指し、1582年(天正10年)6月13日、明智光秀の軍勢と天王山麓の山崎において激突した。
秀吉は、この山崎の合戦で勝利し天下を治める。
名神高速道路の大山崎インターチェンジを降りてすぐの公園に小さな石碑と説明文がある。

 

小栗栖竹藪

明智藪の碑と説明文

明智藪の碑と説明文

明智光秀が最期を遂げた竹藪。光秀は、1582年(天正10年)6月16日、坂本城へ敗走中に農民の落武者狩りで落命したとされる。
小栗栖(京都市伏見区)の住宅街の一角に明智藪の碑と説明文がある。
明智藪の近くに光秀の遺体(胴体)が埋葬されたと伝えられている。

 

光秀の首塚

光秀の首塚

光秀の首塚

京都らしい風情の柳がゆれ、町家の連なる三条通り白川下ル東側に人知れず首塚がある。
光秀の首は、家臣によって隠されていたが、粟田口(京都市東山区にあった刑場)で首と胴が晒された。
その後、現在地に埋められ、塚がつくられ五輪塔墓も築かれた。

 

耳(鼻)塚

豊国神社西側の墳丘(東山区大和大路通)

豊国神社西側の墳丘(東山区大和大路通)

16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉が、さらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵略した文禄・慶長の役(1592~98年)に関わる遺跡である。
秀吉配下の武将は、戦果の証として、敵である朝鮮の人々の耳や鼻を持ち帰りここに埋めて供養した。
戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、今に伝えている。

 

豊臣秀次事件

瑞泉寺(三条木屋町下ル)

瑞泉寺(三条木屋町下ル)

豊臣秀吉は甥の秀次を高野山に追放し、切腹に追い込んだ。その後、都で行われた悲惨な事件が「秀次事件」である。
1595年(文禄4年)8月2日、早朝より一族の女性たちは死装束で、母君の胸に抱かれた若君や姫君と共に牛車に乗せられ、聚楽第から市中引き廻しのあと三条河原に引き出された。
秀次の縁者というだけで、40名に及ぶ妻妾と子どもたちは三条河原の中州の秀次の生首の前で無残にも処刑されたのである。あたかも地獄絵を見るようであった。

伏見城の戦い  関ヶ原合戦前哨戦

源光庵血天井(北区鷹ヶ峯)

源光庵血天井(北区鷹ヶ峯)

血天井とは、武将が戦いで絶命した際の血痕が付いた建物の床板・縁板を供養などのため天井に張り替えたものである。
1600年(慶長5年)、関ヶ原合戦の前哨戦が伏見城で行われ、家康の部下であった鳥居元忠が西軍と戦い、奮戦かいなく自害した。
その際の血糊のついた廊下が血天井として鷹峯源光庵、正伝寺、養源院で保存されている。

 

江戸時代 (1603年~1868年)

宮本武蔵 一乗寺の決闘

一乗下り松(左京区一乗寺)

一乗下り松(左京区一乗寺)

一乗寺下り松において1604年(慶長9年)、宮本武蔵が、将軍家の兵法指南役を務めた吉岡道場の一門と決闘したと伝わる。
決闘後、東寺の塔頭「観智院」に身を隠したと言われ、その間に「鷲の図」と「竹林の図」を描いたと伝わる。
武蔵は、二刀流で知られる「二天一流兵法」の開祖、30歳になるまでに60回以上に及ぶ決闘を行い、負け知らずであった。
前半生は剣の武芸者として、後半生は思想家として生きた武蔵のイメージは、小説やドラマで作られ、時代のヒーローであった。

 

方広寺鐘銘事件

方広寺鐘銘(東山区正面通)

方広寺鐘銘(東山区正面通)

方広寺釣鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」という文言が「家康の名を切り、豊臣は君として楽しんでいる」と徳川家康がいちゃもんをつけ、大坂冬の陣、夏の陣へと発展した有名な鐘である。豊臣家が滅んだ原因の一端であった。
その背景には何やら豊臣と徳川の両者の見えないせめぎ合いが見え隠れする事件である。

 

豊臣国松処刑

阿弥陀ヶ峰山麓 国松と竜子の供養塔(東山区の東山)

阿弥陀ヶ峰山麓 国松と竜子の供養塔(東山区の東山)

秀吉の墓所・阿弥陀ヶ峰麓にある国松の五輪塔。六条河原で斬首、享年8歳。後方の大きい五輪塔は、秀吉側室の京極竜子の供養塔である。
秀頼と側室の伊茶との子が国松で秀吉の孫になる。血縁関係はないが、竜子は国松を可愛がっていた。1615年(元和元年)、六条河原で処刑された国松を哀れんで竜子が京都新京極の誓願寺に葬ったのである。
1898年(明治31年)、豊国廟が整備された時、竜子の墓と共に新京極の誓願寺から移された。

清水の舞台から飛び降りる

清水の舞台 高さ13m

清水の舞台 高さ13m

思い切って大きな決断を下すことを、山の斜面からせり出した清水の舞台から飛び降りることに例えて言った。
13mの高さの舞台から飛び降りるのは自殺ではなく、願掛けである。
寺の記録によると、234件の飛び降りで死亡者34人。 明治時代に飛び降りは禁止された。

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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