忘れられない京の事件簿 ~悲惨な現場が物語る京の歴史~【後編】



▶︎京で起こった悲惨な事件現場【前編】

幕末時代 (1853年~1868年)

芹沢鴨惨殺・粛清

壬生 八木邸

新撰組は、尊王攘夷派を襲撃したのみならず、隊員の粛清も行っている。
新選組初代筆頭局長芹沢鴨が、京都守護職の密命で惨殺されたのが、壬生の屯所の八木邸の一室であった。
1862年(文久2年)9月18日の夜。芹沢はその日、島原の角屋で新撰組の会合があって、酒を飲んで屯所に帰り、妾の女性お梅と寝る。
粛清したのは、待ち構えていた同士であった。

 

近藤正慎

舌切茶屋 清水寺境内

近藤正慎は、幕末の尊王攘夷派の清水寺の寺侍。
清水寺の僧・月照と西郷隆盛が討幕の密談をする。月照の弟子であった近藤正慎が安政の大獄に連座して捕縛され、六角獄舎において拷問されるが舌を切って壁に頭を打ち付けて自害。二人は鹿児島湾で入水するが隆盛だけが助かる。
子孫が清水寺境内で「舌切茶屋」を営む。
孫は陶磁器の人間国宝である近藤悠三、俳優の近藤正臣は曽孫である。

 

寺田屋事件

伏見船宿 寺田屋

1862年(文久2年)伏見の船宿寺田屋にて起きた事件。薩摩藩主の父・島津久光が、京都で討幕のクーデターを起こそうとする過激な尊皇攘夷派の志士たちを鎮圧し、暴挙を阻止した。
1866年(慶応2年)坂本龍馬が伏見奉行所に襲撃されたのもこの船宿であった。たまたま入浴中のお龍が異変に気づき、二階の龍馬に注進、龍馬はかろうじて難を逃れた。

 

姉小路公知暗殺

京都御所 北東部

1863年(文久3年)尊王攘夷派公家・姉小路公知が暗殺された。攘夷の非を悟って開国に傾き、その後に起こった事件である。
京都御所の北東の猿が辻は、御所の鬼門に当たる。鬼が北東から忍び入ることから、鬼門の位置の築地塀をへこます風習があった。
築地屋根の下の蟇股に、御幣を担いだ猿が浮彫にされていたので、この辻を猿が辻という。

 

池田屋事件

池田屋(木屋町三条)

1864年(元治元年)6月5日の夜、尊王攘夷討幕派浪士(長州・土佐藩士)を新撰組がかぎつけ、旅館を襲撃し9名を討取る。この事件で新撰組の名声は日本中に響き渡った。
この日の朝、古高俊太郎を捕らえた新撰組は彼を壬生前川邸で拷問にかけ、武器、文書を押収した。「来る6月20日前後の夜中、御所周辺に放火し、この変事で参内する会津藩主松平容保を襲って殺害する」という計画があることが発覚したのである。

 

蛤御門の変(禁門の変)

蛤御門(京都御苑 西側)

1864年(元治元年)、長州藩兵と会津・薩摩両藩を中心とする幕府との京都御所付近における武力衝突事件。焼いて口を開けるハマグリになぞられ、この名がついた。洛中の3分の2を焼き尽くし、京都市民は甚大な被害を受けた。門柱には弾痕が今も残る。
政局はさらに混乱するが、孝明天皇は公武合体・鎖国攘夷を崩すことはなかった。この状況のなかで、薩摩が幕府側から寝返って長州と手を結び、明治維新と発展していく。

 

六角獄屋類焼

六角獄舎(四条大宮 北西付近)

平安時代に建設された京都の牢獄であり、中京区六角通りに移転されてから六角獄舎と呼ばれるようになった。
日本で初めて山脇東洋が人体解剖を行った。解剖には死刑囚が用いられた。
池田屋事件後、尊王攘夷派の志士たちが投獄された。禁門の変では火勢に見舞われ、脱獄を防ぐために38名全員が処刑されたのである。

 

近江屋事件

近江屋(河原町通り中ほど西側)

1865年(慶応3年)11月15日坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された醤油屋。龍馬は額に致命傷を受けて落命。深手を負った中岡慎太郎も2日後に死亡した。王政復古を目前に控え、幕府が終わろうとしていた矢先の悲劇である。
実行犯は諸説あるが、京都見廻組の犯行が有力である。
龍馬と中岡の墓碑銘は木戸孝允が筆を執り、遺骸は東山の京都霊山護国神社墓地に葬られた。

 

伊東甲子太郎惨殺

本光寺(七条東油小路上る)

1867年(慶応3年)、新撰組から離れていた伊東甲子太郎が、近藤勇に招かれた宴席の帰り、七条通り油小路付近で待伏せた新撰組により殺害される。東側の本光寺門前で絶命した伊東の死骸を引きずって置き、これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士が新撰組の隊士と切り合いになった。
陵衛士の墓は、朝廷の沙汰によって、代々の天皇の御陵をお守りする泉涌寺塔頭戒光寺につくられた。

 

山南敬助自害

壬生 前川邸

山南敬助は、近藤勇らと共に新撰組を結成する。当初は副長、後に総長を務めたが、屯所移転問題を巡り近藤や土方歳三と対立を深め、最終的には脱走した。沖田総司の探索により大津で捕縛され、1865年(元治2年)、法度違反により壬生前川邸で切腹した。
ゆかりの女性・明里が出窓越しに別れたという。壬生屯所近くの光縁寺に墓がある。

 

徳川慶喜 大坂へ落ちのびる

二条城 西門

最後の将軍徳川慶喜は大政奉還を発表した後、1867年(慶応3年)、二条城西門から会津藩主松平容保を伴って大坂に脱出した。二条城と将軍家との決別を見た門である。
内桝形タイプの埋門となり、柱には門番による落書きが残る。現在、外堀にあった木橋は取り払われている。

 

鳥羽・伏見の戦い

激戦があった城南遇、小枝橋付近

1867年(慶応3年)、幕府軍と官軍(薩摩藩)との戊辰戦争の初戦となった戦いである。
旧幕府軍には近代戦を熟知した指揮官が少なく、精鋭部隊を効率的に動かせなかった。朝廷は新政府軍に「錦の御旗」の使用を許可したので旧幕府軍は朝敵になり、大義を失った兵士の士気は著しく低下した。
慶喜は側近を連れて海路で江戸へ向けて脱出し、旧幕府軍は総崩れとなり、新幕府軍の勝利に終わった。
淀の妙教寺では砲弾が突き抜けた柱が残る。

淀の妙教寺 砲弾跡

近藤勇の晒し首

近藤勇は、江戸時代末期の武士、将軍・家茂の警護を行う「浪士組」に参加し、京に登る。京都の治安維持部隊として会津藩配下となり「新選組」の名を拝命。新選組局長となる。
鳥羽伏見の戦いで関東に逃れるが、下総国流山で新政府軍に包囲され敗れる。
1868年(慶応4年)東京板橋で斬首される。享年35。
首は三条河原で晒されるが、土方歳三が会津に持ち帰り、菩提し墓を建てたとも言われている。近藤勇の墓と伝わる遺跡は日本各地にある。

 

明治時代  (1868年~1912年)

琵琶湖疏水・殉職者の碑

蹴上インクライン(左京区粟田口)

京都にとって琵琶湖の水を引くことは昔からの夢であった。明治維新による東京遷都のため沈みがちだった京都に活力を呼び戻すため、琵琶湖疏水が建設された。
疏水の水力で新しい工場を輿し、舟で物資の行き来を盛んにしようという計画であった。
琵琶湖疏水の建設工事中や病気により殉職された17名の慰霊碑がインクラインそばに立つ。疏水設計者の田辺朔郎が私費で建立した碑。


大正・昭和・平成・令和時代(1912年~2021年)

室戸台風

知恩院山門南側(円山公園北側)

1934年(昭和9年)京都市で最大瞬間風速42.1mを観測した室戸台風により、京都市内では校舎の倒壊が相次ぎ、児童112人が下敷きになり亡くなっている。
西院小学校(当時淳和小学校)では32名の児童と1名の教員が亡くなった。室戸台風で犠牲になった児童たちを悼む像が、知恩院の南に立っている。
この像は最後まで身をもって児童を守った様子であり、見る人の胸を打つ像である。

西陣空襲  空爆被災記念碑

空爆被災記念碑  辰巳公園(上京区智恵光院通出水)

京都は、アメリカ軍によって太平洋戦争中1945年(昭和20年)1月16日から6月26日にかけて5度にわたって無差別爆撃をうけた。東山馬町・右京区春日・太秦・御所・西陣。一番被害が多かったのは西陣空襲で死者は50名に。辰巳公園には「空爆被災を記録する碑」が建つ。ここにも戦争の爪痕が残る。

チンチン電車脱線事故

1946年(昭和21年)、深夜の最終電車で起こった脱線事故である。満員のチンチン電車がカーブを曲がり切れずに堀川に転落し、木端微塵になり18名が亡くなる。
乗客は進駐軍や若い女性のダンサーたちであった。北野歌舞練場は北野キャバレーとして進駐軍に接収され、酔った進駐軍が電車をハイジャックし、運転を誤ったようである。

五番町殺人事件

千本中立売西南付近
▶︎堀川の源流とそしてチンチン電車脱線事故 ハイジャック事件か?


1955年(昭和30年)五番町で発生した傷害致死事件である。別人を逮捕してからあとから真犯人が名乗り出た。
国会でもその捜査手法が問われ、自白(拷問と自供の強要?)より物的証拠が重要視され始める。

船岡山現職警察官殺害事件

顕彰碑 船岡公園

1984年(昭和59年)白昼警邏中の警察官を刃物で襲い、奪ったピストルで射殺した事件。その後、大阪市で強盗に入って店員を射殺する事件が発生した。
捜査から、7年の刑で服役して仮出所中の元警察官が犯人とわかった。
今でも事件で亡くなった犠牲者の命日には花束が供えられ多くの方々がお参りに訪れる。

京アニ放火事件

2019年(令和元年)7月18日昼前、伏見で発生した放火殺人事件。ガソリンを撒いて放火したことで、死亡者36人負傷者33名(犯人は含まず)過去に例を見ない大惨事となった。
国内外で人気を得ていたアニメ制作会社に各界の著名人から弔意が寄せられ、追悼や応援の声が上がっている。
建物は解体終了し、更地にされフェンスに囲まれている。建物はなくなったが、貸し出されていた一部の資料およびデジタル化された原画などのデータについては欠損なく回収に成功したと発表された。現在再建の途上にある。

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この記事を書いたライター

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

|自称まちの歴史愛好家|北野天満宮/今宮神社/千本通/明智光秀/怖い話