幕末時代 (1853年~1868年)

芹沢鴨惨殺・粛清

壬生 八木邸

壬生 八木邸

新撰組は、尊王攘夷派を襲撃したのみならず、隊員の粛清も行っている。
新選組初代筆頭局長芹沢鴨が、京都守護職の密命で惨殺されたのが、壬生の屯所の八木邸の一室であった。
1862年(文久2年)9月18日の夜。芹沢はその日、島原の角屋で新撰組の会合があって、酒を飲んで屯所に帰り、妾の女性お梅と寝る。
粛清したのは、待ち構えていた同士であった。

 

近藤正慎

舌切茶屋 清水寺境内

舌切茶屋 清水寺境内

近藤正慎は、幕末の尊王攘夷派の清水寺の寺侍。
清水寺の僧・月照と西郷隆盛が討幕の密談をする。月照の弟子であった近藤正慎が安政の大獄に連座して捕縛され、六角獄舎において拷問されるが舌を切って壁に頭を打ち付けて自害。二人は鹿児島湾で入水するが隆盛だけが助かる。
子孫が清水寺境内で「舌切茶屋」を営む。
孫は陶磁器の人間国宝である近藤悠三、俳優の近藤正臣は曽孫である。

 

寺田屋事件

伏見船宿 寺田屋

伏見船宿 寺田屋

1862年(文久2年)伏見の船宿寺田屋にて起きた事件。薩摩藩主の父・島津久光が、京都で討幕のクーデターを起こそうとする過激な尊皇攘夷派の志士たちを鎮圧し、暴挙を阻止した。
1866年(慶応2年)坂本龍馬が伏見奉行所に襲撃されたのもこの船宿であった。たまたま入浴中のお龍が異変に気づき、二階の龍馬に注進、龍馬はかろうじて難を逃れた。

 

姉小路公知暗殺

京都御所 北東部

京都御所 北東部

1863年(文久3年)尊王攘夷派公家・姉小路公知が暗殺された。攘夷の非を悟って開国に傾き、その後に起こった事件である。
京都御所の北東の猿が辻は、御所の鬼門に当たる。鬼が北東から忍び入ることから、鬼門の位置の築地塀をへこます風習があった。
築地屋根の下の蟇股に、御幣を担いだ猿が浮彫にされていたので、この辻を猿が辻という。

 

池田屋事件

池田屋(木屋町三条)

池田屋(木屋町三条)

1864年(元治元年)6月5日の夜、尊王攘夷討幕派浪士(長州・土佐藩士)を新撰組がかぎつけ、旅館を襲撃し9名を討取る。この事件で新撰組の名声は日本中に響き渡った。
この日の朝、古高俊太郎を捕らえた新撰組は彼を壬生前川邸で拷問にかけ、武器、文書を押収した。「来る6月20日前後の夜中、御所周辺に放火し、この変事で参内する会津藩主松平容保を襲って殺害する」という計画があることが発覚したのである。

 

蛤御門の変(禁門の変)

蛤御門(京都御苑 西側)

蛤御門(京都御苑 西側)

1864年(元治元年)、長州藩兵と会津・薩摩両藩を中心とする幕府との京都御所付近における武力衝突事件。焼いて口を開けるハマグリになぞられ、この名がついた。洛中の3分の2を焼き尽くし、京都市民は甚大な被害を受けた。門柱には弾痕が今も残る。
政局はさらに混乱するが、孝明天皇は公武合体・鎖国攘夷を崩すことはなかった。この状況のなかで、薩摩が幕府側から寝返って長州と手を結び、明治維新と発展していく。

 

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

(自称まちの歴史愛好家)
昭和19年京都市北区生まれ。理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。得意分野は「怖い話」。全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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昭和19年京都市北区生まれ。理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。得意分野は「怖い話」。全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。|自称まちの歴史愛好家|北野天満宮/今宮神社/千本通/明智光秀/怖い話

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