1.紫野はどこ?

船岡山

船岡山

山頂から四方八方の山麓を見渡して見ると、ほぼ紫野である。

京都盆地のランドマークの一つである『船岡山』山頂から四方八方の山麓を見渡して見ると、ほぼ紫野地域である。大雑把に言うと、大徳寺と今宮神社を含む、東は堀川通り、西は千本通り、南は鞍馬口通り、北は北大路通りを囲む地域なのである。
この地は、平安京のエリア外で、内裏の北方は天皇や貴族の遊狩地であり、禁野であった。平安京が廃れると、都の北側を洛北と言い、内野、上野、北野、萩野、紫野、平野、蓮台野を洛北七野と称するようになった。現在でも地名として残っている。
紫野の地名は、染色に使う紫草が生えており、その色がたなびく雲に映って紫になったと言う説がある。紫は高貴な色とされ、昔は天皇の離宮が営まれる風光明媚な地であった。一方、村の先から転じて紫野と言ったかも知れない。
そして、紫野と紫式部との関係も調べてみた。

 

2.絵図、測量図から紫野を読み解く

①天保2年(1831年)絵図

190年前に描かれた絵図であるが、大徳寺が大きく書かれ、堀で囲まれていて外敵からの防御施設と考えられる。今宮社、今宮御旅所、七ノ社、舟岡山の記名が見られる。
船岡山の西南には千本火葬場も記されている。
千本通、大宮通、新町通、室町通の南北の主要な通りが見られる。玄琢方面からの若狭川の流路や賀茂川からの流路も見られる。町は南面の上京まで発展しているが、街道筋の千本通と大宮通に民家が見られ、それぞれの街道は鷹峯や西賀茂・上賀茂・貴船鞍馬に繋がっている。
北側と東側の太い黒色の帯は、1591年(天正19年)豊臣秀吉が築いた御土居の跡である。御土居が当時の町並みの北東部にわたって築かれたのは、賀茂川の氾濫を抑える役割りがあったと考えられる。



②明治42年(1909年)測量図

「今昔マップ on the web」より

112年前の測量図であるが、まだ船岡山は公園に指定されておらず、北山麓に池の跡も見られる。船岡山周辺は、大半は畑地であるが、新町通りや室町通が北に延び出している。
建勲神社もまだ東山麓にあり、南側には鞍馬口通が通っており、第二疏水流路も見られる。京都府師範学校や紫野織物工場も記されている。
タヌキやキツネ・ノウサギが生息していたに違いない。人々が多く住みだすようなインフラは未整備であった。

 

③大正11年(1922年)測量図

100年前の測量図であるが、測量技術も進んだ。等高線を見ると、鷹ヶ峯からの扇状地の地形が読み取れる。船岡山周辺はまだ畑地が多く、建勲神社は山麓から東山頂に移されている。等高線を見ると、陣取り合戦の砦が築かれた自然の要害であるが、山の北西部はなだらかである。山の北西部の中腹に点線が記されているが、土塁と空堀のようである。
現紫野高等学校は、紫野中学校と記されている。東西南北の通りが整備されてきたが、北大路通や勿論堀川通も整備されていない。現在のような北大路通りからの今宮神社参道もない。



 

④昭和26年(1951年)測量図

70年前の測量図であるが、北大路や千本通りには市電が走っていた。幼少の頃、市電が走る音で目覚めた記憶がある。船岡山も公園に指定され整備されだし、24時間365日市民に開放された憩いの場となった。
船岡山の周辺には人々が住みだし、ほぼ今の様な町並みが形成されてきて、町名も記されだした。
現紫野高等学校は淑女学校であり、仏教大学も記されている。今宮神社参道も北大路通りより真直ぐ北につくられた。堀川通りと紫明道の交差付近は、未整理であった。

 

3. 紫野の遺跡巡り

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
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