戦国武将と大徳寺
1.大徳寺とは
大きい徳が得られる寺、即ち「大徳寺」は、鷹ヶ峯からの緩やかな扇状地の南東の「扇端」に位置している。京見峠から流れ出る「若狭川」の流路を寺の周囲に取組み要塞化した寺とも言える。
敷地内には戦国大名ゆかりの寺院(塔頭)が多くある。
大徳寺は、鎌倉時代末期の正和4年(1315)大燈国師宗峰妙超が開祖した臨済宗大徳寺派の大本山。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興した。
桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、それぞれ貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。龍源院、大仙院、高桐院、瑞峯院は、常時拝観可能な塔頭寺院である。他の塔頭は、拝観謝絶であるが、季節により特別拝観がある。別名「庭のテーマパーク」として静かなブームを博している。
千利休の木像立像が山門に安置されたので、秀吉は不敬に思い千利休に切腹を命じたという?己の美学で秀吉に対峙し、一目置かれていた利休が自害したのである。
時の天下人、豊臣秀吉はあらゆる事に頂点に立っていたが、理不尽な理由で千利休に切腹を命じたのでしょうか?今でも不可解な事件である。
2.総見院
羽柴(後の豊臣)秀吉が、本能寺の変に倒れた織田信長の追善菩提のために建立した。
信長亡き後の政権争いの中、秀吉がその主導権を握るために建立した、歴史的に大変重要な寺院である。本堂には秀吉が奉納した木造織田信長公座像(重要文化財)が安置されている。らんらんと輝くその眼光は信長の面影が良く伝わってくる。
境内墓地の北側には、信長公をはじめ、徳姫(信長の息女)、濃姫(正室)、おなべの方(側室)など、一族7基の五輪石や墓碑が並んでいる。
玄関前には秀吉が千利休から譲り受けたという樹齢400年の胡蝶侘助椿(こちょうわびすけつばき)がある。
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昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。
|自称まちの歴史愛好家|北野天満宮/今宮神社/千本通/明智光秀/怖い話
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