本来の祇園祭は神幸祭と還幸祭

平安時代初期に京都をはじめ全国で疫病が流行した。貞観11(869)年、禁苑である神泉苑で、当時の国の数だった66の鉾を立て、神様が乗られた神輿を八坂神社からお迎えして疫神を鎮める「御霊会」を行ったのが祇園祭の始まりで、今年は1150年目の節目に当たる。
66の鉾は時代とともに山車状の豪華なものに変わり、それを町衆が支えてきた。街のあちこちに山鉾が立ち、巡行も派手なので観光客には受けるけど、本来は神輿の露払いなんて言うたら怒られるかな。ま、詳しいことは他の記事に詳しいやろうから割愛するが。

 

三基の神輿と又旅社

祇園祭の神輿は三基ある。中御座の神輿は六角形で、八坂神社の主祭神である素戔嗚尊(スサノオノミコト)がお乗りになる。東御座は四角形で素戔嗚尊の奥さんである櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、西御座は八角形で二神の子どもたちである八柱の御子神(ヤハシラノミコガミ)の神輿だ。それぞれ約2~3トンの立派な神輿で、中御座の神輿は最も大きい。が、重さは西御座が最重量である。やはり八柱も乗っておられるさかい重たいのか?!
とにかく非常に重いので、あれだけの距離を担いで歩くには最低でも300人、交代の人を入れると1000~1500人は輿丁(よちょう、神輿を担ぐ人)さんが要るそうだ。

7月17日の神幸祭では、昼間に山鉾巡行で浄められた界隈を、三基の神輿がそれぞれ違うルートをたどって四条寺町の御旅所まで渡御する。24日の還幸祭も、山鉾巡行のあとで別々に八坂神社へ戻るが、大宮通から寺町通まではすべて三条通を行く。三条会商店街の東寄りにある又旅社は八坂神社の境外末社で、還幸祭の時にはオハケ(神様の依代となる三本の御幣を約2m×60cmの斎芝に立てて鳥居前に置かれる)を設けて神様に休んでいただくのだ。神輿が順に到着すると御霊を御幣へ移し、休憩されてから再び八坂神社を目指すのである。


中御座の神輿に関わる三若さん

明治時代まで、二条~四条通、堀川~西大路通までのエリアは「三条台村」と呼ばれていた。ここ八坂神社の領地があったご縁で、元禄ごろに村の有志で「三条台若中」が組織され、三基の神輿渡御を請け負うたと伝えられている。近年、都市人口減少などの理由から東御座は高瀬川の舟主衆を経て京阪三条界隈の人が運営する「四若神輿会」に、西御座は壬生村の有志を経て錦市場の青年部会が中心となる「錦神輿会」へ託されたけど、「三条台若中」は現在でも組織づくりに関わった家の長男が世襲しているそう。その内訳は、神事に関わる「三若神輿会」と財務管理に関わる「祇神会」からなっている。

写真提供:三若・吉川忠男氏

中御座の神輿は主祭神がお乗りになるのにふさわしい構えで、神輿の屋根には八坂神社分社である丹波の尾長野八坂神社の神田で収穫された稲を飾る。この稲は祭が終わったら、御神酒をあげた家に粽や御札と一緒に配られるのだ。稲を煎じて飲むと熱冷ましや疫病除けになるといわれ、茅の輪のようにまるめて門口へ飾る人もいるとか。我が家では、輪にして井戸のガチャポンへ吊しているが。


男衆が作る「みこし弁当」

で、「三条台若中」、通称三若さんの会所は三条会商店街の中ほど、神泉苑西通りを南に下がったとこにある。普段はひっそりしているが、祇園祭には大勢の人が出入りする。
17日と24日になると、夜明けとともに精進潔斎した「三若神輿会」の男衆が集まってきはる。輿丁さんの食事を用意する「弁当打ち」が始まるのだ。

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川添 智未

京都市北区生まれ、中京区在住。たまねぎ工房の屋号でライター・フードコーディネーターをしている。酒好きが高じロ利酒師・日本酒学講師となって酒セミナーを開くほか、京の食文化ミュージアムあじわい館「食と酒のかたりべ」でもある。飲み食い以外の趣味は犬で著書に「洛中いぬ道楽」、相方は犬用介護ハーネスの玉葱工房(http://www.tamanegi.com)
ブログ【京都・町家ぐらし】

                                   

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