「有名人が織りなす、祇園祭事件簿」後編

今年は山鉾巡行が中止になった祇園祭。
でも、1100年以上ある祇園祭の歴史の中では、びっくりするほどさまざまな事件が起きてきました。

この記事では「有名人が織りなす、祇園祭事件簿」と題して、知られざる祇園祭のエピソードを前後編にわけてご紹介しています。

前編の古代編では、藤原道長、清少納言、平清盛が登場。
歴史上の人物が激怒したり、大ピンチに陥ったり…といった事件をご紹介してきました。
(まだお読みでない方はぜひどうぞ!)

▶︎「有名人が織りなす、祇園祭事件簿」前編

後編は、鎌倉時代からの中世編。
足利義満や織田信長も登場しますよ。

「有名人が織りなす祇園祭事件簿 中世編」
それではどうぞ!


事件簿4 〇〇役が決まらず祭りが延期に!

平安時代の869年から始まったとされる祇園御霊会(祇園祭)。
平安時代は天皇家や貴族などが大スポンサーでしたが、鎌倉時代になると、源平合戦、その他の争乱で余裕がなくなり、祭も派手さがなくなってきました。

こうなると問題になってくるのが費用面。
このころ、費用を出すことになった人を、馬上役といい、一年ごとに、御旅所の神主の指名で決まっていました。
たいていは洛中の金融業者などの富豪ですが、何せ大きな祭ですから、かなりの出費です。

毎年そうそうスムーズに決まるはずもなく、ついに1321年、馬上役が決まらないことで、祭が延期になってしまったのです!

この馬上役、二年後にいったん停止されますが、その後復活。

室町時代に入った1343年に馬上役に当たった人などは、一度辞退するも、祇園社の神人(じにん。祇園社に仕え、結構荒っぽいことも引き受ける人たち)に押しかけられ詰め寄られ、即金で支払わされます。
こうなるともう無理やりですよね。
この時はさすがに訴え出て、後に返金してもらったそうですが…。

1357年にも、馬上頭役に指名された人が資金を出し切れず、親類の財産が差し押さえられてしまうという気の毒な事件が起きています。

この資金問題、室町幕府もなんとかせねばと、祭の経済基盤づくりに乗り出したりしています。
お金の問題は、いつの時代も大変なのですね。


事件簿5 神輿で南禅寺楼門を○○させちゃった事件

八坂神社の神輿と南禅寺楼門、なんて、現代ならインスタ映え確実の華やかなとりあわせですよね。

しかしこの時代は「映えてる!」なんて喜んでいる場合じゃなかったのです。


祇園社は歴史的に、最初は興福寺、のちに延暦寺の傘下にありました。
(なぜ神社がお寺の傘下に?と思われる方は、前編の事件簿3を読んでね!)

延暦寺といえば、500年以上続く一大勢力です。ですが室町時代に入ると、幕府は禅宗を庇護するようになり、延暦寺と新興勢力の禅宗寺院との間で、たびたび対立・抗争が起きていました。


当時、寺や神社が自らの要求を通そうとして行っていたのが「強訴」。

神輿を担いだり、神木を奉じた大勢の僧兵や神人が朝廷や幕府の御所に押し寄せ、要求が通らないときは、神輿を門の前に放置したりして、業務妨害をするというものです。

邪魔ならどかせばいいじゃないか、と思いますが、神輿は神様ですから、当時は部外者は触れません。

朝廷や幕府も、都に入られる前に止めなければと出兵したり、とにかく大ごとだったのです。


そんな1369年。足利義満が三代将軍になるころです。
延暦寺から派遣された祇園の神輿が強訴する「神輿振り」が行われました。

悶着の末、訴えは受け入れられ、南禅寺の新造の楼門は壊され、五山(禅宗の有力寺院)のトップが退任させられるという、大事件になってしまったのです。

まさに仁義なき戦い。

一方、神輿もこの強訴で「穢れた」とされ、作り替えが必要となりました。
しかし、作り替えるには多額の資金が必要です。修理は進まず、なんと20年あまり、神輿なしの状態となってしまいました。

しかし、神輿が無くても祇園祭は行われました。

この20年あまりの間に、神輿がなくても山鉾は巡行する、といったような「鉾の自立」が進んだともいわれています。

義満はしばらくの間、神輿なしの行列を見物したことになりますね。


事件簿6 足利義満が桟敷で〇〇〇と「あーん」!?

足利義満といえば、室町幕府三代将軍。金閣を建てた人物です。
アニメ「一休さん」では、むちゃぶり好きな将軍様でおなじみですね。


義満は猿楽(後の能楽)が大好きで、最先端の演出で人気を集めていた観阿弥・世阿弥親子を強力にバックアップしていました。

義満は、息子の世阿弥少年が大のお気に入りでした。
現代で例えれば、ジャニーズか、AKBのセンターか、という立場の少年で、世阿弥が12才のころから寵愛していたといいます。


そんな中、事件は1378年に起きました。

当時20才の義満が、祇園祭を見物する四条東洞院の桟敷に「大和猿楽児童」、つまり世阿弥(15才位)を同席させたのです。

身分が違いすぎる者を公衆の面前で(御簾はありましたが)同席させるとは!
周囲はざわつきました。

それだけではありません。なんと自分のお膳の食べ物を、世阿弥に食べさせたというのです。

いわば「はい、あーん」状態。

幕府トップの将軍様と!トップアイドルが!!

現代に例えれば、総理大臣がアイドルを膝に抱っこして特別個室席から祭りを見物して「あーん」してたとか、ありえない度でいうとそれ以上の状態。衝撃的です。

公卿からは非難ごうごう。噂は都中を駆け巡ることとなりました。


世阿弥にとってこのスキャンダルの話題性は抜群です。将軍様の後ろ盾があることを都中にアピールすることになったのは間違いありません。
(好き嫌いは別ですし、バッシングも受けたでしょうが…)

芸の発展にとって、パトロンである義満は重要な存在。
世阿弥はこの後も義満の寵愛を大いに受け、猿楽をさらに発展させ、幽玄能を大成していくことになります。

扇子と手ぬぐい

事件簿7 後小松上皇が○○に上っちゃった!?

室町時代、将軍をはじめ貴人の祇園祭見物は、特別にしつらえられた桟敷か、有力者の屋敷などから行われるのが通例でした。

桟敷といっても現代のような簡単なものではありません。
屋敷の塀に沿って、塀よりも高く作られた、屋根付き、壁付きの桟敷。
中は何部屋(区画)もあって、まるでテラスハウスです。

1380年の足利義満の桟敷などは、幅10間(3区画)に加えて、2間の離れまであったといいます。
ざっと見積もっても22メートルくらいの大きさです。

こんなものを邸内にしつらえることになった屋敷の主、接待する側はさぞ大変だったことでしょう。


また、貴人は大抵、上京に住んでいますから、祭の中心地である下京に出向くのは、費用・準備の面からも一大事でした。

ということで、室町時代半ばには、通常の巡行に加え、山鉾の方が、上京の仙洞御所や内裏、室町殿(将軍の御所)などへと出向くように要請されました。


そんな中、事件は1424年に起きました。
後小松上皇が、なんと、築地(塀)の上にのぼって見物したという噂が広まったのです。

「高貴な方が塀にのぼるなんて信じられない!」「いやいや、召使に傘を差させてご覧になったらしいぞ!」など、まことしやかに語られましたが、さすがにこれはデマでした。

実際は、庭に作られた築山という小高い丘のような場所から見物されたようです。


ちなみに、山鉾をひいたり担いだりする人々からすれば、体力的にもかなりの負担。
しかも、上京に出向いているうちに夕立にあい、ずぶ濡れになってしまったという記録もあります。

今のように防水加工やビニールシートなどない時代、山鉾の懸装品や作り物は、どうなったんでしょうねぇ…。

事件簿8 式日の○○が安定したのは織田信長のおかげ!?

武者風流と鉾

祇園祭(このころは祇園会と呼ばれていた)は、1467年の応仁の乱で断絶しました。
町は焼かれ、山鉾も激減しましたが、焼け残った町を中心に1500年に再興されました。

しかし、決して安定的に行われたわけではありませんでした。
その理由のひとつが、延暦寺です(また登場!)。


当時、日吉祭や祇園会は、延暦寺の支配下にあり、行われる順番が決まっていました。

ですから、たとえば日吉祭が何らかの理由で延期になると、日吉祭が行われるまではほかの祭も延期になるという、理不尽な(?)玉突き状態が起きていたのです。

祇園会も、9月とか12月の巡行はザラ。ひどい時などは翌年5月に「去年分」として行われたりしたことも…!

その数、1572年までの60年間で25回以上。もう、2年に1回は延期状態で、1533年には「神事が無くても山鉾は巡行します!」と町衆が表明したほどでした。


ここで登場するのが織田信長。

ご存じのように、信長は、1571年に比叡山を焼き払い、1573年には室町幕府を滅ぼします。

そう、信長は、祇園会にとって最も深いかかわりをもっていた「延暦寺」と「室町幕府」の二つともを焼き、滅ぼしてしまったのです。

しかし皮肉にも、これで延暦寺の介入が弱まり、式日の巡行が安定してきました。
1578年には信長も祭を見物したそうです。


余談ですが、昭和の時代、祇園祭の「町衆の祭」論が沸き起こりました。

町衆が幕府に対抗し、1533年の「神事が無くても山鉾は巡行します!」という表明をもって、華々しく輝かしく、祭の独立宣言をしたのだ、町衆万歳、という歴史論です。

しかし、歴史的にみると、実際は町衆と幕府の対立などはなく、むしろ室町幕府は祭のパトロン、スポンサー的存在だったとされています。


さて、町衆が主役には違いありませんが、幕府は滅んでしまったのですから、幕府が作った祭の経済基盤など、祇園会のシステムは再構築されていくことになりました。

その過程では、豊臣秀吉も一役買っています。
そうそう、御旅所を現在地である四条寺町に移したのも秀吉なんですよ(1591年)。

また、徳川家康も1615年に祭を見物しています。

祇園祭と歴史上の人物は、想像以上に深い関係にあったのですね!

「有名人が織りなす祇園祭事件簿」、いかがでしたか?

平安、鎌倉、室町と、歴史の中の祇園祭の姿を楽しんでいただけましたでしょうか?

今回ご紹介した以外にも、祇園祭では本当にたくさんの「事件」が起きてきました。

2020年の巡行中止もそのひとつですよね。

今年は確かにさみしいけど、でも大丈夫。祇園祭は大切に受け継がれていきます。

町衆をはじめ、様々な人々の手で、しなやかに、祈りを込めて。
きっとこれからも、多くの「事件」を乗り越えながら…。

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この記事を書いたライター

 
歴史の楽しさを広めたい、京都出身のフリーアナウンサーです。
龍谷大学大学院、国史学専攻、文学修士(古代史)。
歴史好きを生かし、京都の歴史や伝統文化を紹介する番組に多数出演するほか、番組構成など制作にも携わってきました。
アナウンサーとしては、京都市などの式典の司会もつとめています。
歴史の面白さをお伝えしたいと、「初心者からマニアまで!発見いっぱい京都歴史ツアー」の企画&ガイドや、「京都奈良の観光おすすめ情報!稲野一美アナがご紹介」というサイトを運営。
ガイドブックには載っていない、マニアックな京都案内を発信中です。
レースアナウンサーのお仕事もしており、モータースポーツでは、TOYOTA GAZOO Racing 86/BRZ Raceや全日本カート選手権など、全国のサーキットで、熱いレース実況をお届けしています。
今まで、MBSラジオ、KBS京都テレビ・ラジオ、OBCラジオ大阪、J-SPORTS 3などにレギュラー出演。
趣味はドライブ、ゴルフ、寺社・史跡めぐり、俳句などなど。
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|フリーアナウンサー|洛中洛外/祇園祭/歴史上の人物/洛外/秀吉